私は幼い時からテレビを見て育った.テレビに関わる組織がまさか大衆の心理を支配者権力者の都合に合わせて偏った方向に操作誘導するというふうに邪な意図を裏に持しているとは思ってもいなかった.日本国民を真の目覚めから遠ざけることをテレビ局創設以来数十年間やって来ていたなんてことは,私が幼い頃には想像もしていなかった.だが,この20年でインターネットがこれだけ盛んになって来て多くの情報が手に入るようになると,もうテレビの悪質さがありありと伝わって来て,見ていて本当に気持ちが悪くなるのである.
 これまで,このブログでは逸らしの手口として幾つか話題にしてきた.

 


 今回は「伊集院」と「ゆず」についての逸らしの意味について説明する.伊集院 光と言えばテレビタレントであるし,ゆずと言うと歌手が想起される.何故これらが関連しているのか,このことを歴史的に考察してみよう.
 窪田 志一 氏の著書によると,現在の鹿児島県日置市伊集院地区にはかつて九州王朝の都が存在していたことが記載されている.また,舶来品としての柚子について次のように説明がある.

  第4章 謎のさつば聖と柚子の里
 
 伊集院は野も山も柚子に満ち満ちた柚子の里であった.…かつて,「薩菩聖」(さつば聖)なる柚子の香りが大好きな天竺人僧が柚子を斉し,伊集院は野も山も柚子の植え込みで満ち満ちた柚子の里であった為,倉院が出来た時,柚子からその名を採って「柚子院」と名付けられ,それが転訛して「伊集院」を当字するように至ったものだという.


 即ち,伊集院という名の由来が「柚子」と関連している.今から千数百年程前にアラブやペルシャから渡ってきた人物がいた.SATTVAという名の僧侶であったので薩菩聖と当て字したという.その薩菩聖が訛ってここ鹿児島の地が薩摩と呼ばれるようになったとされている.後に,薩菩聖は北陸まで東征して遂に京都に入り,継体天皇として即位した.その薩菩聖は中国や東南アジアから柚子の木を多く齎し,伊集院の地に数千やら数万本もの柚子の苗木を植え,その地には柚子の倉が多く林立するほどの賑わいになった.そこで,この地を柚子院と名付けた.軈て,それが訛って伊集院という名称になって行ったとのことである.
 日本の歴史上,伊集院の地は大変重要な貿易の拠点であって,文化発展の中心地だったようである.歴史的には「倭寇」という海賊の記録が九州には多いが,実はその実態は伊集院を拠点として東シナ海からシンガポール,インド迄を股に掛けた大規模な海洋貿易事業であったのである.1500年代初期,弥次郎こと岩屋梓梁の時代には伊集院城や妙円寺・鶯宿等の高度な文化交流や,鉄砲製造工場など実に多くの先端技術の生産設備の集積地がそこにはあった.弥次郎についてはこれまで幾つか話題にした.

 


ザビエルを日本に招いたのは弥次郎である.また,伊集院氏というのは歴史が古く,南北朝の時代や戦国時代にも大きな力を持っていた豪族であったし,元々島津氏は伊集院氏の家来筋であったようである.しかし,大名島津氏や後に勃興して来た徳川氏等が伊集院氏の支配を面白く思わず,関ヶ原合戦で徳川家康は裏で島津氏に伊集院氏の撲滅を指示するほどであった.徳川と島津との表向きの対立は実は偽装であって,江戸時代を通じて相仲よく連携し,岩屋梓梁や易断党などの重要な歴史を隠蔽する為に結託していた.幕末維新後,明治新政府はその歴史隠蔽策をより強固にする為に,更に学校での歴史教育では伊集院のことや岩屋梓梁の業績を悉く抹殺して来た.そして,現代においても日本人に「伊集院」と言えば「伊集院 光」というデブのテレビタレントで,「柚子」と言えば「ゆず」という二人組歌手であるというふうな印象・イメージを大衆に擦り込ませている.
 以上のように,実に巧妙な手口で日本人は真の歴史に注目が集まらないように仕向けられている.このことに逸早く気付き,テレビ連中が我々に押し付ける常識をかなぐり捨て,独自の判断で今後は生活して行かねばならないのである.

文献
窪田志一:易断政府を樹立した岩屋梓梁,岩屋梓梁と易断政府研究会,pp.123-124,(1972).