巷の映画やドラマ漫画では幕末当時に土佐藩脱藩浪人であった坂本龍馬が薩長同盟の成立に大きく貢献したとされている.だが,それは嘘である.薩摩と長州はずっと前から友好関係を持っており互いに深く交流していた.その内容については以前も話題にした.
では,何故明治初年当時の新政府権力集団は坂本龍馬なる人物を捏造して事実を歪曲する必要があったのか?今回はその論拠を記すことにする.
大内義弘と伊集院家
弥次郎の母は西海貿易代官「高橋忠吉」の娘「瑞穂」であるが,高橋家の祖は遠く周防大内家の一族「高橋民部弘綱」の子「弘紹」が大内義弘の命によって,伊集院妙円寺創建の為部下を連れて伊集院に移り住んだときに始まる.大内義弘は死んだ自分の娘の菩提寺の建立を自分が帰依している「石屋真梁」禅師の兄「伊集院大隅守久氏」に依頼し,石屋禅師を開山として,元中7年(1390年,明徳元年),曹洞宗法智山妙円寺を伊集院徳重の地に建立した.妙円の名は義弘の亡き娘の法名「法智山妙円大姉」からとったものであるが,寺社建立という事を意味する当時の思想からみると,妙円寺の建立ということは大内義弘の薩南の地における拠点確保という勢力扶植であり,大内義弘と伊集院家の政治,経済貿易業務の開拓提携ということであり,また,伊集院が南九州における「大内文化」取り入れの窓口となるという意味において,政治的軍事的には重要な意味があったのである.
図1 東海及び西海貿易
成程,岩屋梓梁が生まれる百年以上も前の時代には既に長州(山口県)大内氏と薩摩(鹿児島県)伊集院氏との間で深い交流があった訳である.石屋真梁とは伊集院忠国の嫡男で岩屋梓梁に多大な影響を与えた数代前の祖先である.後の歴史家はこの事実を認めるとなると自ずと岩屋梓梁の存在に行き付き,世間に広く知れ亘ることになるとした.それは不味いと判断した当時の明治新政府が小説家を使って痛快なキャラクター,即ち,「坂本龍馬」という風雲児を作った訳だ.龍馬が如何にも幕末明治維新前夜当時の日本で大活躍したというストーリーにすることで,本当に起こっていた当時の歴史的事実を完全に隠蔽した訳である.ただ,明治後も龍馬が生きていたとなると話がややこしくなるので,頃合い良しとして,王政復古の大号令の直前に京都で暴徒によって刺殺されたといったふうなストーリーに仕立て上げて行った訳である.だから,「龍馬暗殺の下手人は誰か」という物語がいつも騒がれるが,抑々龍馬は存在すらしていない.その辺の表向きの物語は徳川慶喜他が作成した回顧録2)とも辻褄が合うように明治時代当時の渋沢栄一他からなる関係者集団が結託して仕立ていったに違いない.渋沢栄一というのは要するに江戸時代,即ち,タルタリア帝国時代から既に興っていた産業を全て自ら受け継いで,明治になって恰も自分だけで起業したかのようにして振る舞っていた演者役者である.そういう不届き卑怯者でないとお札の肖像として選ばれたりはしないのである.
兎に角,幕末明治維新の本当のことは西南戦争があった所為で闇に葬られた.薩摩の大豪傑西郷隆盛氏は徳川氏の歴史歪曲主義を徹底的に忌避していた.だから,西南戦争の本当の目的は徳川時代の歴史改竄主義を押し通す明治新政府のやり方を糾弾し,真実の歴史を子供達には教えるべきであると主張する事であったのだ.西郷さんは徳川幕府のやり方を継承する同じ薩摩藩氏族の大久保利通や重野安嗣一派とは一線を画していたし,岩屋梓梁顕彰活動を堂々と公式に進めて行きたいという強い意図があった訳である.だが,それが叶わず無念の西南の役勃発,そして敗走となった訳である.
ああ,何時になったら本当のことが世に浸透するだろうか.
文献
1) 窪田志一:岩屋天狗と千年王国 下,岩屋梓梁顕彰会,p.139, 143,(1987).
2) 例えば,童門冬二:渋沢栄一人間の礎,学陽書房,(1998).