AIによると,

「『蛇梁倭変(じゃりょうわへん)』とは,1544年に朝鮮の釜山(草梁・草梁浦)で発生した,朝鮮在住日本人(恒居倭人)が朝鮮官憲に虐殺された事件で,この事件が原因で日朝間の貿易(絵画貿易)が停止し,対馬の宗氏と朝鮮王朝間の関係が悪化,その後の「丁未約条(ていびやくじょう)」締結(1547年)に繋がった,日朝貿易の転換点となった重要な出来事です.」

となっている.だが,これは真実か?「歴史」とは後の世の歴史家が支配者の都合を考えて事実を歪曲捏造することである.当然ながら,この内容について疑ってみなければならない.
 ところで,これまで何度も述べて来たように,岩屋梓梁の行蔵については実に興味深いものがある.現在の日本の状態とその周辺国との関係に大きく影響するような歴史的事跡を良い悪いに関わらず多く残している.
 特に,この「蛇梁倭変」であるが,年代的に岩屋梓梁が生存していた時期と将に合致する.一体何を岩屋梓梁は500年前の朝鮮半島で「しでかした」のだろうか?今回はその事について詳しく考察してみる.いつものように,窪田志一氏の著書からの引用で,鉄砲伝来の時代1543年頃のことである.


 註=種子島の鉄砲伝来は天文11年(1543年)であった.

 慶長12年に成立した島津の鉄砲記には,鉄砲伝来は天文12年(1543年)(天文癸卯)と記されているが,これは史実歪曲であって,本当は,西欧の記録(アントニアオ・ガルワノ著新旧発見年代記,ロドリゲス著日本教会史)や筆者のかたいぐち記にある天文11年(1542年)が正しいのである.では何故,鉄砲伝来を1年ずらしたかというと,岩屋梓梁が天文13年(1544年)4月に,軍船20隻,鉄砲500挺,壱千人の威力をもって朝鮮に侵寇,
自分と朝鮮王女「玉珥」との間に生まれた「清茂」を朝鮮王「仁宗」として擁立した.(蛇梁倭変) その為,その重要な戦力となった500挺という鉄砲を製造することの時間的余裕を無くす,(短く)する為,つまり,蛇梁倭変は岩屋梓梁が敢行したものであるという事実を隠蔽する為に,(従来史の方で)鉄砲伝来を1年ずらして天文12年(1543年)としたのである.


 この「朝鮮への侵寇」というのが気にかかるが,何かこの出来事に至る迄の背景があるのか,何らかの理由があるのかもしれない.だが,1000人が朝鮮を攻め立てるとなると,...後世に生きる我々日本人にとって,何事かを背負わされる切っ掛けがこの蛇梁倭変であったのかもしれない.しかも,「(岩屋梓梁が)朝鮮王女『玉珥』との子『清茂』を朝鮮王「仁宗」として擁立...」とある.これは一体何事か?岩屋梓梁は朝鮮の王朝にも手を出したという事である.岩屋梓梁が多くの女性と関係を持ち,多数の子孫を残して来た事については以前も述べた.

 


岩屋梓梁の死後,残された子孫達の間で紛争が勃発し,各地で跡目争いやら領地の諍い,延いては,天皇家の世継ぎに関わる事にも深い小競り合いが生じるなど,大変なことが起こった訳である.その騒動があった時代を従来史では「戦国時代」としているのである.つまり,少なくとも日本国内では随分と大騒がせな事を岩屋梓梁はやった訳である.ところが,今回注目する蛇梁倭変は朝鮮王朝に関わることである.朝鮮人の民族性にも大きく影響するほどの「朝鮮王女との交わりとその子を王として擁立する」という事件があった.即ち,鹿児島伊集院から朝鮮王朝への血の混入が起こった訳である.これは,後世に大きく影響するだろう.多大なる宿業を我々日本人は背負うことになった.
 実際,数百年後の昭和から平成にかけての日本政治中枢でのいざこざは何か朝鮮民族からの仕返しとでもいうべき時代であると私は判断しているのだが,...

 

 

 

 


これだけ在日朝鮮勢力にしてやられて,現在日本人は本当に深く疲弊している.カルマとは実に恐ろしいものだ.500年前の一人の人間の判断が現代に生きる我々日本人の生活に大きく影響するとは,何ともスケールの大きい話である.朝鮮と日本との憎しみ合いは増々エスカレートしていくのだろうか?或いは,その終焉は一体いつになる事やら,....その発端が岩屋梓梁からだとすると,その血を一部引いているかもしれない私は,............,ここで,沈思黙考,深呼吸して,深く反省すべく瞑想をし,お詫びと感謝を関係者に捧げねばなるまい.
 岩屋梓梁のペンネームである聖徳太子や空海・菅原道真公は霊界で抹殺された.そのことについては以前も何度か話題にした.後世に生きる我々の心の修行には「菅原神社」等は大して為にならないと,真の神が判断しての事だろう.だが,岩屋梓梁自身の本当の魂は一体今何処を彷徨っているだろうか?霊界で抹殺されたのか,或いは,転生して現在また日本人として自身のカルマの解消の為に生きているのだろうか?

文献
1) 窪田志一:西郷征韓論は無かった,日本ロマン集團會発行,p.102,(1982).