平成21年 2月17日 訃報
当神社に永年ご奉仕いただいている、男鹿市脇本鎮座 菅原神社
宮司 伊藤宗昌様が15日に帰幽されました。
私も長い間菅原神社のお祭にお勤めをさせていただいております。
長い間のお付き合いで本当に残念です。
先月25日は当神社の名誉宮司が帰幽しましたが、実はこの15日に
私の家内の父が逝去し、本日葬儀が執り行われました。
ごく親しい人が亡くなり非常に悲しい気持ちです。
人間の命には限りがあると言われていますが、このようなことも
現実なのでしょうか。
平成21年 2月13日 父親の思い出 8
今日も何名かの方がお参りにきてくれました。
本当にありがたいことです。
父親の思い出話で、車を豪快に運転していたのこと。
満90歳まで運転していましたから、かなり危うい運転かもしれませんね。
ささやかなことでも、想い出話しがあることは幸せなことだと思います。
元気なおじいさんでした。
平成21年 2月12日 父親の思い出 7
10日の葬儀は無事に終わり一息ついています。
今は心の中の一部に穴があいたようです。
96歳の父親が寝たきりでも、そこにいるだけで存在感がありました。
私にとって偉大な存在でした。
しかし、いつまでも後ろばかり見ている訳にはいきません。
これからも、今まで以上にご支援ご協力をお願い致します。
よろしく。
平成21年 2月 9日 父親の思い出 6
平成になって仕事の量も少なくなりましたが、一部の地域では
まだ父親が奉仕しないと承知しない地区がありました。
私が行くと、お婆さん達が今日は若い人が来たと残念がって
いる光景が見受けられました。
いくつになっても、父親にはかなわないと本当に実感しました。
今、いなくなって父親のありがたさが身にしみています。
すべてのことが自分自身に降りかかってくるのですから。
父親から宮司を引き継ぐ前は、仕事の8割以上は、私がこなして
いたと思っていましたが、目に見えぬ事が山ほどありました。
現在の神明社は、両親のたゆまない努力の結晶です。
これからも、母親と私たちの家族、そして、松田奉賛会長はじめ
役員・総代の皆様と共に神社護持・運営に励みたいと思います。
明ければ、本葬となります。今夜は亡き父を偲び最後の夜を
過ごします。
平成21年 2月 8日 父親の思い出 5
昭和から平成への御代替わり時、父は秋田県神社庁の理事を務めており他の
役員の皆様と昭和天皇のお見送りをさせていただきました。
この頃も元気で車の運転も普通にしておりました。
私も結婚して、平成元年に長女・平成3年に長男が生まれ、うち孫の顔を両親に
見せることができました。
平成の時代は仕事も良くしてくれていましたし、両親そろって色々な所に出かけていました。
しかし、年とともに体力が落ちてきて、満90歳をもって運転免許を返納しました。
本人はもっと運転したかったようですが、これ以上はということでやめてもらいました。
残念ながら、車から離れるようになったら病気がちになり、前立腺を患い間もなく
車椅子生活となりました。
特に、トイレが大変で本人は頭がしっかりしているので、家のトイレで用を足したいとの
要求で母が非常に難儀をしていました。
また、このころからデイサービスに通うようになり本人も楽しみして、喜んで
母と二人で通っていました。
スマイル輝の皆様には本当によく介護をしていただきました。
最初は年に1回の入院でしたが、年とともに入院回数も増えていきました。
秋田組合総合病院に皆様にも献身的な看護をしていただきました。
平成21年 2月 7日 父親の思い出 4
昭和50年代は神前結婚式が減少し、本来の御祈祷・出張祭の仕事が
中心となりました。
私も一人前になり、事務は父親で神事は私という分担で仕事をしていました。
神明社の曳山行事も年々賑やかになり、曳山の奉納台数も増えてきました。
しかし、昭和60年代には戻り曳山で痛ましい事故がありました。
奉賛会松田五名総代を中心として「曳山実行規約」を制定し、責任の所在を明確にし
安全で楽しい曳山行事が行われるようになりました。
平成に入ってからは、文化財の曳山をいうことで秋田県の記録選択の文化財
秋田市文化財、秋田県文化財、平成9年に国の重要無形民俗文化財に指定され
まさに一流の曳山行事の仲間入りをはたしました。
このことは、私の父親が宮司として当時の役員・総代の皆様と力を合わせ神社の
護持・運営に務めた証であろうと思います。