なんかアホみたいなタイトルだけど、
このことについてひとつ理解できたことがあったので記しておこうと思う。
自分に対する備忘録。
でもなんでここに書くかと言えば、
誰かへのヒントにもなればいいなという思いが少なからずあるから。
意識や、この現象世界や、生死というものに凄く興味があって
いろいろな本や何かを読んだり聴いたりして
だいぶ理解が深まってきたとは感じるんだけど
このところずっと疑問だったことが上のタイトル。
いわゆる本当の自分、ハイヤーセルフ、大いなる自己…
呼び方はなんでもいいけど、とにかく
この世の全てと繋がっている「おおもと」があって、
今「自分」と思ってるのはそこから派生した見かけの姿だとか言うけれど
ではなんで今のこの体を持っているひとりの人間にしかフォーカスが当たってないんだ?
いま感じられている「この自分」がたったひとりの自分で
隣のあの人の意識状態にはなれないのは何故なのか?
引っかかっていたその答えが、とつぜん現れた⛅️
「意識」や「感情」も、この肉体に付随して個別のものだから、
「この自分」が「この自分」しか意識できないのは当たり前じゃん!
ああ、なんでこんな単純なことがわからなかったんだろ。
つまり個の意識で捉えてる限り、
全体性の意識を感じる(全てのものにフォーカスが当たっている状態)
なんて感じられるはずがなかった。
この体と意識のセット、つまり今感じられている「この自分」=「私」というものは
感覚器官、受信アンテナ、経験体だってことは、頭では既に理解してきている。
「おおもと」にとっては「私」が経験したり感じたりすることはオールOKで、
「私」が嬉しく感じる体験でも、苦しいと感じる体験でも、どちらも優劣は無い。
けどそうは言っても「私」個人はやっぱり苦しい体験はウェルカムじゃないんだよ。
もし「おおもと」の意識状態を感じたいのなら、
自我への執着をやめる、手放す、ゆだねる、明け渡す、降参する…
っていうことになるんだろうな。
これも今までよく見聞きしてきたことだけれど、やっと腑に落ちた感じ。