近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麿の作れる歌


0029玉襷(たまだすき) 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代(みよ)ゆ【或(ある)は云はく、宮ゆ】生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知らしめししを【或は云はく、めしける】天(そら)に見つ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え【或は云はく、空みつ 大和を置き、あをによし 奈良山越えて】いかさまに 思ほしめせか【或は云はく、おもほしけめか】天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生(お)ひたる 霞立ち 春日(はるひ)の霧(き)れる【或は云はく、霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる】ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも【或は云はく、見ればさぶしも】

柿本人麻呂


【折口信夫訳】畝傍山の橿原の都に居られた、天子の御代から、だん/”\に現れてござつた、神の如く尊い天子方は、どの方もこの方も、代々大和の國で、天下を治めてござつたのに、其國を捨てゝ、奈良山をさへ越えて、どういふ御心であつたのか、それまでは田舍であつたが、此近江の國の、漣の郷の大津の宮で、天下をお治めなされたといふ、御先祖の神さまの天子の御所は、この邊だと聞いてゐるが、天皇陛下の寢起き遊ばした御殿は、この邊だといひ傳へてゐるが、來て拜して見ると、春の草が一ぱいに生えて居、春の天氣がぼうと霞んでゐる御所の跡を見ると、悲しいことだ。


【愚訳案】

畝傍山のふもと 橿原宮の天子様の御代から
大和の地で 天下をお治めになってこられた
つぎつぎと 神のように

それが どうしたみ心からであろう
奈良の山を越え さびれた地であった近江へと
遷られたことであった

大津宮で天下をお治めになった
天子様の大宮 御殿
今になって探しているのだが
確かにこのあたりだというのだが
春の草が生い茂り 霞がたちこめ 
どこにも求めようがない

ああ 悲しき大宮の跡



反歌


0030ささなみの 志賀の辛崎(からさき) 幸(さき)くあれど 大宮人(びと)の 船待ちかねつ
柿本人麻呂


【折口信夫訳】漣の郷の滋賀の辛崎は、變りなく、人でいへば達者でゐるけれど、いくら待つても、宮仕への官人衆の船が出て來ない。船を待ちをふせることが出來ないで居る。


【愚訳案】
志賀の辛崎
ここは何ひとつ 変らない
だが 宮廷の者を乗せた船は
来ないのだ
いくら待っても



0031ささなみの 志賀の【一(ある)は云はく比良の】(しが)の大わだ 淀(よど)むとも 昔の人に またも逢はめやも【一は云はく、逢はむと思へや】
柿本人麻呂


【折口信夫訳】滋賀の浦の大きな〓【さんずい+彎】が、いつまで靜かに淀んでゐようとも、其處へ遊びに來た昔の人に、逢ふことの出來ようはずがあるものか。(長歌は、堂々たるものである。しかも、懷古の幽愁が沁み出てゐる。短歌には、悲しんで傷らずといふ長者の博大な心が見えてゐる。但、其だけ黒人の作には、劣つてゐる。)


【愚訳案】
そしてまだ 志賀の崎にいる
ここには 水のよどみがあって
様々なものが寄せて来る

こんなふうに 昔の人が集うことは
もうないのだろうか
もう 誰にも会えないのだろうか



●原文
過近江荒都時、柿本朝臣人麻呂作歌


玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従【或云、自宮】 阿礼座師 神之尽 樛木乃 弥継嗣爾 天下 所知食之乎【或云、食来】 天爾満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超【或云、虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而】何方 御念食可【或云、所念計米可】天離 夷者雖有 石走 淡海国乃 楽浪乃 大津宮爾 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流【或云、霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留】百礒城之 大宮処 見者悲毛【或云 見者左夫思母】


反歌


楽浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津

左散難弥乃 志我能【一云、比良乃】大和太 与杼六友 昔人二 亦母相目八毛【一云、将会跡母戸八】