讃岐国安益(あや)郡に幸(いでま)しし時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見て作れる歌


0005霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらぎもの 心を痛み 鵺子鳥(ぬえこどり) うらなけ居れば たまだすき 懸けのよろしく 遠つ神 わご大君の 行幸(いでまし)の 山越す風の 独り居る わが衣手に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へるわれも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網の浦の 海処女(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひそ焼くる わが下心
(軍王)


【折口信夫訳】永い春の日が暮れ遅くて、暮れたのやら暮れぬのやら區別も訣らない、さういふ時に、心痛《シンツウ》して心の中で嘆いてゐると、貴い我が天皇陛下の行幸先の、行宮のほとりにある山を越して吹く風が、戻るといふ詞だけは辻占よく、妻に離れて獨りゐる自分の袂に、朝晩に幾度も繰りかへして吹いて來るので、其都度、自分は立派な男だとは思つてゐながら、旅にゐるのであるから、其悲しい心をうつちやる手だてもつかないので、譬へて云へば、近くの綱《ツナ》の浦で、蜑女たちが燒いてゐる鹽の樣に、表面には現さないが、燒き付く樣な氣のする、底の心持ちだ。


【愚訳案】

讃岐国安益郡に行幸されたとき、軍王が山を見て作った歌


どうしたことだろう
おれは一人前の男だというのに

霞のこめる 春の日の夕暮
陛下のいらっしゃるあの山から
風が吹いて袖をひるがえす
おれはなぜか心を傷めてしまい
鵺鳥のように 泣いてしまった

旅の途次 うさを晴らす術もなく
心の底まで 焦げつくようではないか
これではまるで 網の浦の幼い海女が焼く
焼塩のようではないか



0006山越しの 風を時じみ 寝(ぬ)る夜落ちず 家なる妹(いも)を 懸(か)けて偲(しの)ひつ
(軍王)


【折口信夫訳】山越しに吹く風が、始終吹いてゐるので、寢る晩毎に、何時でも、家にゐるいとしい人のことを、心に思ひ浮べて、焦れてゐる。(一體に長歌は、外界の描寫は、極めて微力なものとしか現されてゐない。此長歌に於て、客觀事象が明らかに深い印象を與へるのは、注意すべきことである。)


【愚訳案】


今晩も激しく
山越えの風が吹くのだ
家に残した 妻よ
どうしているか



右は、日本書紀を検(かむが)ふるに、讃岐国に幸(いでま)すこと無し。また軍王もいまだ詳(つばひ)らかならず。ただ、山上憶良大夫(まへつきみ)の類聚歌林(るいじうかりん)に曰く「記に曰く『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊予の温泉(ゆ)の宮に幸す云々』といへり。一書(あるふみ)に云はく『この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹に斑鳩・比米(ひめ)二つの鳥さはに集まれり。時に勅して多く稲穂を掛けてこれを養(か)ひたまふ。すなはち作れる歌云々』といへり」といへり。けだしここより便(すなは)ち幸ししか。


右について日本書紀を調べてみると、(舒明天皇が)讃岐国に行幸なさったことはない。また軍王が誰を指すのか、はっきりしない。山上憶良の『類聚歌林』によれば、こうある。「古事記に『舒明天皇の十一年十二月十四日、伊予の温泉の宮に行幸された』とある。また別な書物によると『このとき宮の前に日本の木があって、イカルとひめ鳥がたくさんとまっていた。そこでご命令を下し、稲穂をかけて餌としてお与えになった。そこで作った歌である』」と。すると、讃岐からこの記述のように、伊予へと行幸されたのだろうか。



●原文


幸讚岐国安益郡之時軍王見山作歌


霞立 長春日乃 晚家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 独居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海処女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情


   反歌


山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹樻


右検日本書紀無幸於讚岐国。亦軍王未詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰「記曰『天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午。幸于伊予温泉宮。云々』一書云『是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅「多挂稲穂而養之」仍歌。云々』」若疑従此便幸之歟。


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