前日付の記事は、本居宣長の神の定義はすばらしい! で終りました(笑)。


宣長はまず、こんなのが神様だよ、とまずは列挙して、いわば帰納法的に「神の定義」を導いていましたね。再掲すると、


①古典(古事記や日本書紀などを指すのでしょう)に記載のある神

②神社に鎮まる神

③人やその他の生物、自然

④その他(何にまれ……と補足説明あり)


①はどうでしょう。そもそも天御中主神、高御霊神、神御霊神と「神」という字が使われている。それに、イザナミ・イザナギの二柱の神は「命」だったり、「大神」と書いてあったりする。日本書紀では「命」っじゃなく「尊」だし、それって神様なの?


②みんなが考える神社っていうのは分るけれど、じゃあ極端な話、普通の家に「○○神社」って看板をつけて神様をお迎えしてもいいの?


③人って言うけど、あの憎たらしい人が神とはとても思えん。うちで飼ってるハムスターが神様だとしたら、籠に入れるのはかわいそうだ。海や山が神様なら、うかうか海水浴も登山もできやしない。


などなど、優れた定義とは申しましたが、この「宣長が列挙」した部分だけ見れば、色々疑問が出てくることと思います。そこで宣長はまず、前述④その他に続けて、「何であっても『すぐれたる徳』があって、畏怖すべきもの」を神であるとしました。やはり普通じゃ駄目なんですね。


ところが、これでもまだ宣長の考える神を正確に言い切れていないのです。さらに続け、「すぐれたる」という言葉について「尊きこと善きこと、功(いさお)しきこと」など良い面ばかりではなく、「悪きもの奇(あや)しきもの」でもよい、としています。


悪い神様、確かにいますね。例えば貧乏神は別に貧乏じじいでもよいのに、「すぐれたる徳」がある、つまり生活を貧しくしてしまう、人智ではかりしれない力を持っているから、我々の祖先が「神」と呼ぶようになったんでしょう。同様に、奇妙な、怪しい神様もいますけれど、よい・わるいを決めるのは人間ですよね。神様はそんな人間の価値判断からは、やはり超越しているんでしょう。


また、「可畏(かしこ)きもの」という言葉に注目する学者さんもいらっしゃいます。ドイツの神学者が提唱している観念と通底しているので、うんぬんかんぬん……と仰るのですが、別にドイツから持って来なくても、と私なぞは思いますけれど(笑)。ここでの「かしこき」はもちろん、賢明であるという意味ではなく、畏怖の感情を抱くべき、という意味です。思わず恐れかしこまってしまう存在が神様なんですね。