日本は海外向け『諜報戦略』が下手だ | 未来を語る新宿老人党

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 1.敗戦前の「陸軍登戸研究所」が日本の諜報機関のトップだった 

・戦時中に日本陸軍が満州・中国で数々の非人道的な諜報活動を取ったであろうことは、噂話ではよく聞くが、ほとんど情報公開されていない。その活動の中心機関が川崎にあった陸軍登戸研究所 で、謀略や諜報などの企画・開発を担い、731部隊や陸軍中野学校と連携した秘密活動を展開した。もともとこの機関は、新宿戸山ヶ原設立(1922)された陸軍科学研究所、満州事変(1931)、日中戦争(1937)を経て軍国主義体制が強まるとともに登戸に移転してきた。

・後に設立されたスパイ養成機関陸軍中野学校もこの登戸研に属していた。この種の諜報活動は、具体的な活動内容を知ることは、戦前日本の戦争・軍隊を知る上で、きわめて貴重な歴史資料だが、日本政府はなかなか公開しない。ところが、ここに明大生田キャンパスが建設され、そこの平和教育登戸研究所資料館として公開されている。旧陸軍が中国の政治 経済 軍事 上治安破壊のために非合法的手段による謀略活動を取った犯罪行為が、明大の研究者・学生によって具体的に公開され、全国各地でイベント展示されてもいる。

・ドイツから印刷機を輸入し、内閣印刷局や民間の専門家を動員して中国のニセ札製造し、陸軍中野学校 の出身者が上海に運搬した。後に香港で原版を接収してから「本物」を中国で刷るようになった。目的は、蒋介石政権の経済政策を揺さぶり、インフレ を促進し世相を騒乱とするもの。

・敗戦直前には千葉の海岸で風船爆弾を米国本土向けに放流する実験が行われた。今思うと「竹槍で米兵に向かう」と同じ構図だが、「米国民に対して、戦争は日本軍の勝ちだ」という宣伝文を印刷した紙バクダンであり、陸軍による敗北直前のせめてもの反撃であった。


 2.陸軍「石井731部隊」は、国策として「毒ガス兵器」を開発した 

石井731部隊とは陸軍化学研究所に所属し毒薬や毒ガスを開発・製造した。部隊には東大や京大をはじめとした医学系の優秀な教授、医師、さらに民間の研究員が競って赴いた。その数は2,600人を超え、いわば当時の最高レベルの医化学専門家が集められた。「防疫給水」の名で、細菌戦に使用する生物兵器を研究・開発する機関であり、石井は中国での戦線拡大に伴う日本の資源不足による苦戦を解決するため、安上がりの武器として細菌兵器に目をつけた。

・最近、シリアの化学兵器が話題になったが、日本陸軍は80年前から、化学兵器を開発していた。

・石井部隊によるペスト・コレラ・性病などの生物兵器や毒ガスのどの成果は世界的にも優れたもので、そのため石井はその成果を米軍に引き渡すことを条件に戦犯を免れた。

・また、石井部隊の出身者が敗戦後日本の医学界の一翼を担ったとも言える。たとえば、代表的な薬害訴訟である「エイズ刑事裁判」の被告・安部英元帝京大学副学長も石井部隊の協力者であったらしい。

731部隊では、治療法の研究目的でと称して、3千人以上の捕虜を生きたまま人体実験したと言われる。石井自身、医学研究において「内地ではできないことがあり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった」と語っている。その時の実験に供された死体が、敗戦後新宿戸山ケ原の国立感染症研究所周辺から発見されている。常石敬一はこれらの人骨は手術の練習台として使用されたものであろうと指摘している。

・実は、現代医学の最重要課題である「ガン治療のための抗ガン剤」は、ここで研究された毒ガス兵器の医療への転用だ。


.「日米開戦」に向けて、あわてて「中野学校を設立した 

・「陸軍中野学校」という映画がかつて市川雷蔵主演あったが、1938年に岩畔豪雄・秋草俊らを中心に設立された。日中戦争がドロ沼に陥り、日米開戦が必須となり、石油資源を求めて東南アジア対策も重要となったギリギリの事態でやっと「謀略」の重要性が認識された。

ここの卒業生は1941年からのわずか4年間でしかないが、そのうち東京帝大が最も多く、次いで拓大、東京外大、早大、慶大、明大等が続いた。当初は純粋なスパイ技術養成機関であったが、日米戦争の開戦を機にゲリラ戦術の教育機関へと変貌し、インドや東南アジアへの潜入を目指した。

・中野学校の卒業生は一般兵士向けの東条訓と異なり、「捕虜の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱せよ」と教育された。敗戦直前にはインドネシア独立戦争や、東南アジアの独立戦争に携わった卒業者も多くいたらしい。

マレー作戦では、中野学校出身者らの藤原・岩畔機関が、英印軍の半数を占めるインド人兵士に対する投降作戦を展開し、投降したインド人により編成されたインド国民軍が、さらなる投降誘致や軍事施設破壊などに活躍し、後にチャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールで樹立された。

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