東日本大震災から13年、私じしんのルーツにかかわる景色が失われたことは、他のさまざまな災害事象から区別してなおとくべつに思い出される。

 

きょうは三陸の震災、およびその災後をテーマにすえた小説として、わすれることができない『はんぷくするもの』について改めて。

 

 

この小説は、作家・日上秀之氏によって著わされ、2018年に河出書房新社の刊行。

 

本作は、文藝賞を冠した記念のインタビューで、小説家自身が語っているとおりの、ロシア翻訳文学のいろあいが文章のはこびにゆたかである。それはユーモアの広がりにおいて容易にたしかめられる。そして、現実社会とのリンクでいえば、小規模のツケをめぐる地域人との、これまた小規模な関係性のなかへと「投げ入れられている」主人公。えがかれる物語があらわしている、不活性な地方のもよう、そのような現実もわが国にたしかにある。

 

文章はときおりいびつなリズムをもつこともあり、それはよいニュアンスでのこと。文章の慣習からのはずれ方が新しいし、ユーモアの作用はそれと関わっている。作家は、いまのありふれた日本語の用い方を、純粋にはきっとよいと思っていない。(とおもう)

 

そして文章と文章のあいだで、ロシア的な笑いをさそう、よごれた幽霊のようなものがうろうろしているのがいい。災後の、なんでもないようにみえる日常の労苦が、そういうユーモアと一体でもある。

 

震災発生の、そのタイミングをダイレクトに描いてはいない。それどころか、災後のライフスタイルにおける無意味で(にみえる)ちいさな暗喩に、主人公は執着している。しかしそれはけっして震災をめぐっての「定型文」へきりつめられていかない、ということでもある。あくまで描写は、主人公が個人的におかれている劣勢と、彼のきょくたんな繊細さの中で生きられている。

 

おおきな物語へと回収される、ということが、私たちの心を救っているような見かけをもつことがあるが、そうだろうか?

ほんらい苦悩は、集合的なものではない。その誘因に耐えて、この主人公はひとりそれを引き受ける。

 

 

 

 

 

おわり