武術家に甲野善紀さんという方がいる。彼の技術に「影観法」というとりくみがあるが、非常に共感するところがあり、かねがね興味深く眺めてきた。(総合格闘技をやってる知り合いがけいこをつけてもらったりしてたことがあったり…)

 

で、「影観法」とは一言でいうと「我ならざる我がやる」と説明されるものであるが、なんというか、「裏」の意識でやる、というもの。

 

刀で切り結ぶとき、相手方はまず、こちらの表の気配に反応している。こぶしや刀、それを動かす筋や骨格が動くまえに、まずは相手はこちらの意識に感応している。気配というものだろう。人は人の心を読めてしまう。

 

影観法はこれを逆手にとる。

 

ことばでの説明よりも例えば以下の動画を参照すると理解がはやい。システマの北川さんとの動画。

【甲野善紀×システマ】無意識に働きかける技の世界(前編) …無意識レベルでズラされて全く対応できませんでした! - YouTube

 

 

 

このブログは備忘録でもあるため、読まれる方への配慮にかけるほど、飛躍してしまいますが、ここから先は文学の話。でも、つながっているんだよ。

 

シュールレアリスム運動のように、無意識こそがインスピレーションの泉で、無意識を上手に解放できればすばらしい作品ができると信じている芸術家はいまでも(たぶん)多い。でも、そういうふうな予断をもつひとの作品ほど、観念的かつ同じパターンをなぞることが多いようなのはどうしてか(斎藤環,2012)。

 

たとえばラカンは、ジョイスの作品が無意識とは関係なく作られているとする。つまり意識的に発揮された「技術」の産物、ということ。(同,2012)

 

また、シン・エヴァのときの庵野秀明さんは、無数に撮りためたカットを意識的に再構成することで画を進めていった。彼は、じぶんの内から無意識を解放するのではなく、文字通り「外」側におのれの無意識の痕跡を発見し、それらをつなぎあわせていく。(いつだったかのNHKのドキュメンタリーより)

 

 

こうして組まれたカット割は、大量のカットの中から、結合しうるものどうしを「選ぶ」創作者の意識を反映していることは間違いない。しかし一方でカットを「生み出す」ときの自意識による汚染はない。

 

この映像のシーケンスをみている聴衆は、創作者の余計な自意識・エゴのようなものの気配を感じない。自意識がまじらないゆえに、いっしゅんで間合いに入られる、というおもしろさ。気配もなく懐に飛び込まれる感覚。

 

お気づきのように、ここでは要するに創作論を問題している。「望外なもの」を招致する(森本孝徳)うえで、「生み出そう」という自意識はかならずイメージ優位となる、それゆえシニフィアンを過剰に汚染する。無意識は拒まないはずだ。けれどもそれは内側からとりだすのではなく、外側にその痕跡をひろわなくてはならない。それは「意識的」な技術であり、その意味で「編集」に近いといえそうだ。

 

 

 

おわり