4年ほどまえ出版の『人新世の資本論』、はじめて読んでみました。4年前の本について書くことでさえも「おくればせながら」というエクスキューズを付帯させそうになる、現代人ならではの時間感覚に我ながらぎくっとしますが、兎に角以下に雑感を。

 

まずはじめにここでは別に本のサマリーを書こうともしていませんし、たんなる雑感を示します。ですが、読んでみてふつうに良書というか、ここまで踏み込んでマルクスを解釈し資本主義の核のようなところについて書かれたものはこの時代にあって奇特だし、ゆさぶられる思いがしました。

 

さて、私たちは子どものころから、まじめに一生懸命単一の価値「偏差値」に即して勉強しよい大学に行く、という価値観を刷り込まれてきました。大人になっても、毎日満員電車(現代の奴隷船)に揺られ、泣く子を保育園に預け(よろこんでいく子もいますが)、じぶんはコンビニ弁当やカップ麺をPCのまえでむしゃむしゃ食べながら長時間働き、休日にはその恒常的ストレスからショッピング、アルコール飲料で解消する、みたいな生活が一市井の条件であるかのような錯覚に染められて生きています。

 

これは潤いのある「文化的」で「自由」な暮らしでしょうか?それどころか誤謬(欠乏)でなくて何でしょう

 

個人的には、JJルソーのかいた古典のなかにこんな一節があったのを思い起こします。

 

 

ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会[国家]の真の創立者であった。杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう?(「人間不平等言論」本田喜代治・平岡昇 訳、岩波文庫、1972年、第2部、85頁)

 

 

ここでかかれる「私有」のアナロジーはそのまま資本主義の囲い込み(エンクロージャー)に通じているように思います。みなのもとに共有されていたコモンズにおいて、人々は果実、薪、魚、野鳥、きのこなど生活に必要なものを適宜採取していました。それが囲い込まれることによって共有地は解体され、排他的な私的所有に転換されていきました。水平的共同管理が解体されたことが、資本主義の離陸を準備したわけです。

 

そこで、私たちはそうした共有財へと自由にアクセスすることがかなわなくなった。結果、本源的蓄積がはじまり、人々は生活手段を奪われて生活していた土地から締め出され、多くは都市にながれ、賃労働者として働くように強いられたわけです。

 

低い賃金のため、子どもを学校に行かせることもままならず、家族全員が必死に働きますが、それでも安全な食品は肉も野菜も高価で手に入らず、時間もお金もなく、伝統的なレシピは忘れさられ、生活の質はどんどん低迷してきました。

 

ほんとうは、必要なもの(使用価値としてのもの)が手に入ればあとはのんんびりすごしていいはずなのに、資本主義の枠のうちではそうはならない。現代では水でさえも有償な希少財として転化してしまいました。昔は、家の横を流れている沢水をくんで飲んだら事足りたものが、逆説的ですが、今の目からみると非常に文化的なものだったとノスタルジックに回顧できます。

 

資本主義は、あらゆるものに「希少性」を付与し、それを増大させ商品価値をふやしていきます。そうして人々の労働力を収奪し、のみならず地球環境(森、海、川、動物たち)からも延々と無慈悲な収奪を繰り返してきました。そしてすでにその環境負荷の高いライフスタイル(もっともこのライフスタイルは、米国をはじめ私たちの多くも「自由」の実現とみなしています)を、地球自体がこらえることができなくなっている。

 

地球環境が破綻してしまえば、そこにくらす以外のプランBは存在しません。利潤最大化と経済成長を無限に追い求める資本主義では地球環境をまもることはできない。

 

 

たんに備忘のため、たいへん急ぎ足で書きなぐって読み返しもしないので、論旨がきちんといっていず、すみません。

 

私たちはいまのままの生活を恐れ知らずに続けるのか? 100年、200年先の子孫の幸いについて、意識するしないにかかわらずひとりひとりの危機意識のなかで考えるべき最後の分岐に立っています。SDGsのような幻は、すくなくとも私たちの根源的な変容をたすけるようなアジェンダでなどではなく、「阿片」であることはたしかなようです。