かつての作家のうちで、しいて特異なにんげんを一人だけ挙げてといわれたとき、私は宮沢賢治がその人だと思う。

というかたぶん、あるていど高いところに視線を位置付けて文学史を見渡してみたら、あまり考えも疑いもせずに、けれど一定の信念をこめてこう答える人が多いと思う。

 

宮沢賢治は特異な人で、たぶん近代とは全然べつのところで書きたかった人なのでしょう。「小説」のリアリズムは「近代」の産物であり、そうである以上、芸術の表現としては暫定値であって、彼は近代の「外」で「童話」を書いた。凝視

 

彼の童話世界が含む魅力は、そこで私たちがめぐりあう「イメージ」の豊かさに還元して考えられることがたびたびですが、私たちはそれに雷同すべきでしょうか? 銀河鉄道の夜などの作品群の特異な点は、そうではなくてむしろイメージを拒絶している点にあると感じます。つまりイメージよりも明らかに象徴界優位の世界です。驚き物語をイメージにたよってつむぐのではなく、極力、シニフィアンがイメージに汚染されないよう、語を置いていくてぎわがずいしょに見て取れます。すると、世界の抽象度が異様に高くなり、あるところでそれが回転扉みたいにくるっとイメージの具象に転化する、というわけです(吉本隆明『宮沢賢治論』)。賢治が多くの造語やオノマトペを開発したいきさつなんかもそれと関係します。

 

 

私たちが生きる現代(=近代の延長)において、童話をかくという発想がどれだけ突飛で、的をいたアイデアでないのは誰の目にも明らかでしょう。オエーこういうようなとき、リアリズムを乗り越えるべく要請される態度というものは、(あたりまえかもしれないですが)近代を外から乗り越えるあり方ではなく、それを内から内破するというふうな在り方です。

リアリズムの更新。これまでのリアリズムに甘んじるのでも、童話を書くのでもなく、リアリズムと(賢治的)童話世界とを融合することにそれはかかっています。どういうことでしょうか。

 

ラカンの図式を持ち出した方がわかりいいのでそうしますが、人は鏡像段階以来、基本的にイメージを事実に近く、ことばを虚構に近くとらえる信憑に支配されています。そして小説を書く才能にあふれたにんげんたちが描く作品のほとんどすべても、その信憑を映し出すように、イメージ優位の世界となっています。象徴界もイメージも、ボロメオの輪のようにたがいがたがいによって存在するというふうな位相的な関係におけるものですし、もちろん、小説は物語ですから、そのなかの文章は時間の流れに従って構成される通時態という様相をすてることはできません。差し縫いボタン(point de caption)として意味をつむがなければならない。けれどもイメージや意味は時間による汚染を含みます。これに対してシニフィアンの場は、時間の流れには無関係であり、辞書をひらいたときのようなシニフィアンの共存の場、広がりをもった場的次元です。賢治の宇宙星がふるびれない理由、時間が流れていない理由は、そのあたりにあるだろうということです。合格

 

めんどうになってきたので、ここらへんで寝ようと思いますが、あんぐり

私が直観的に思うのは、小説のリアリズムとはつまり「通時的なイメージへの無意識の信憑から生まれる芸術上のひとつの値」に過ぎない、ということです(グラサン)。これをそのまま裏返したものには「詩」があてはまりますが、(賢治)童話はそのどちらにも位置づきません。そのためたいへん稀有なテキストです。でも、そこから遺伝子をわけてもらうことなしには小説はゆきづまってしまいます。

 

そういう作家が出てくるのを私たちは待ちましょう歩く  鬱とインフルでやばいです。いいねとおもった方、意味わかんねと思ったかた、あわれだ…とおもった方、いいねお願いします

 

 








全然かんけいないけど、ビートルって可愛いよね