きょうは仕事をお休みして、おくればせながら君たちはどういきるかを見て来た。

 

鬱気味なので、後半一時間は疲れて早く帰ってきたかったが、帰ってきたら元気になったので、ちょっと感想をかいてみようと思いました。

 

結論をさいしょに喋ると、微妙でした。どうしてなのか。おもうままに、書いてみます。

 

 

まずはじめにこの作品については記号的解釈とかしてもあんまり意味はないと思います。アオサギ、戦争、母の死、その母の実妹との父の再婚、ペリカン、石…。解釈をするには、あまりにも要素や象徴が多いし、各々のキャラは生きているから、どれかに焦点化すると他の対応関係はぼけてくるとおもう。無数に可能な解釈のうちから任意にひとつまみしてそれをよりどころにするのは心もとない。

 

ではこの作品は、そういった解釈を拒むべくして徹頭徹尾、荒唐無稽であったかどうか。それもまたNOだと思う。観衆フレンドリーな宮崎さんは、作品の読み解きや解釈へといざなうような、足がかりをいろいろな所に(中途半端に)置いていっている。本当に荒唐無稽なものを狙って、観衆への配慮を手放すつもりのとき、作り手はそういうふうにしないと思う。あっちの世界に行って帰ってくる「アリスインワンダーランド」的荒唐無稽であれば、「千と千尋」がすでに商業の枠組みで十分に成功していたはずだしね。

 

なんかさいしょ、宮崎さんは、自分の作りたいものを作りたいように作ったのかな、と思ってこの作品を見にいきました。ある意味、自分勝手に、私小説的に、庵野秀明っぽいノリで作ったのかな、と。

 

でもなんとなくそうではない。というかそうできなかったのかも。私小説的に、観衆への配慮を停止した上で作りたかったのだとしたら、あまりに宮崎さんは観衆に対して、フレンドリーすぎるかも。随所のセリフ回しが、中途半端に、観衆への「ついておいで」という配慮に思えて歯がゆかった。商業ベースで苦心惨憺してきた末に染みついた作法が抜けていないのでは、と穿った見方もしてしまう。やるならもっと徹底的に突き放してくれないと。

 

母と子、火、戦争、神隠し、夢、鳥、戦闘機、あと(微妙に)世界系。「俺が作りたいものを作る」という真剣さから作られたとしても、各要素はしあわせで有機的な結合をみなかったし、その作法はやりなれたものではなく、どこか板についていない。出てくるキャラクターの総和は夢のように多彩かつ荒唐無稽ではあるけれど、夢のような納得感は薄い。

 

宮崎さんは、論理の人で、物語の人だと思う。さっきいった「足がかり」の中途半端さは、物語の中途半端さに通じている。物語は宙づりにされている。母と子の話なのか(うーん)、戦争の話なのか(絶対そうじゃない)、そうかといって物語の否定(荒唐無稽)にもなりえていない。だから「ついておいで」の身振りも、どこか中途半端だ。

 

宮崎さんが商業を横においてほんとうの意味で「作りたいものを作った」のだとしたら、彼は自分自身が物語の人で、その物語が観衆によって支えられていたという事実を今作で確かめることになったかもしれない。彼は物語を手放すこともできないし、観衆との真向からの対峙の上でそれは成り立っていた。彼には私小説は向かないということの一つの典型を作品が示した。

 

 

しごとします。

 

 

 

おわり