・・・のかもしれないと思う今宵です。
お久しぶりです笑

随分と空けてしまいましたが、藤岡は元気です。

さて、今日は仕事の合間にずっと楽しみにしていた「島前神楽」の稽古に行ってまいりました。

神楽とは、神社の祭神に奉納する際に舞う神事を芸能にしたモノですが、
伝統芸能や文化の継承と教育は共通項があるのではないかと思い、とても気になっておりました。

行って、振り返って出てきた言葉が、タイトルの「松下村塾に黒板は無かった」のかも、です。

神楽の舞には教科書は無いようです。
口承で受け継がれるものですが、だからこそ、「情報の構造化」や「論理性」では伝えきれない部分まで
伝えられている気がします。そして、学ぶ側にも、かなりの集中力と学びの力が必要とされるものです。

確かに伝えやすくする為に、「情報の構造化」や「論理性」は必要です。
しかし、それだけでは表現できない、伝えきれない「匠」の技は伝えきれないなと思いました。

野中郁次郎の言う身体知、暗黙知はやはり構造化して他人には伝えにくく、
ゆえに学ぶ側に学ぶ力が必要となってきます。

学ぶ側の未来を考えた時に、果たして過剰に「情報の構造化」や「論理性」は必要でしょうか。
学びとる力が必要となってくるのであれば、幼少のころから文化を学ぶ経験をすべきなのではないかと
思います。口承で文化を学びとる力があれば、おそらくそれは一生モノでしょう。

そう考えると、今の電子黒板など様々な試行が教育環境整備においてなされておりますが、
それは本当に必要なのでしょうか。

過剰に教育環境を整備する事は、実は学ぶ側の力を削いでしまうのではないかと考えます。

だから、よく教育環境のモデルとしてあげられる松下村塾には、学ぶ側の力を最大に発揮させるために
黒板が無かったのではないかと思って、松下村塾の画像を一通り見てみました。

やはり、黒板が無かったのです。

吉田松陰は黒板を知らなかったのか、はたまた、知っていたけれども、なのか。

教育にも不易と流行を見極める事が必要だなと、思ったと同時に
子供に口承で文化芸能を教える事の重要さを気づきました。