志を立てるのに、
老いも若きもない。
そして志あるところ、
老いも若きも
道は必ず開けるのである。
(松下幸之助)
人生、
何もしなければ何も起きませんよね。
人生を変えたい、
目標を達成したい。
何かを手に入れたい。
そう思うなら、
まずは希望を持つこと。
そして
「それらを実現する」
という志を持つことが大切ですね。
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富士山に登るなら、
まずは
「登る」と決めて、
必要な準備を整えて、
登り始めたら頂上を目指して
ひたすら登り続けなければなりません。
サンダル履きでコンビニ袋を持ったまま、
そのついでに思いついたからといって、
ふらふらと歩いていったところで、
富士山には絶対に登れないわけです。
富士山に登るにはまず
「富士山に登る!」
という
「志」
をはっきりとうち立てること。
それが始まりですよね。
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人生において「志」を持つ時、
その志は高ければ高いほど、
「目標達成」
という頂上までの道のりは
遠く、険しくなっていくもの。
だから、
その道を歩ききるには、
「志を実現する」
という意思。
つまり
「『志をかなえる』という志」
それも必要になってくるのではないでしょうか。
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お話しを変えてみましょう。
あなたが駅までの道路を歩くとして、
その通りには車やバイク、
自転車ががんがん走っているとします。
道の右端を歩く。
きっと駅まで行かれますね。
道の左端を歩く。
その道は駅につながっていなかったとしても
怪我することは無く、
あなたはどこか他の場所に
たどりつけるでしょう。
だけど
道の真ん中をふらふらと歩いていたら・・・。
たどりつく先は駅ではなく
病院かもしれませんね。
「自分はこの志をかなえる!」
そう決めて、
断固としてやりぬけば、
きっと道は開けて、
目標に到達することも
可能となるでしょう。
「そんなの無理だよ。
自分には向いてない」
そうあきらめて、
他の道を探すこと。
長い人生。
それはそれでいいのかもしれません。
問題は、
「『志をかなえる』という志」
無しに、
中途半端にやろうとすること。
それでは結局、
自分の持つ資源、
時間やお金や労力を無駄に使って
「結局何も手に入らなかった」
「骨折り損のくたびれもうけ」
で終わってしまった。
そうなってしまうことは、
やりだす前から、
目に見えているのかもしれません。
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人は志をかなえようとする時、
何かを手に入れようと思う時、
それが大きなものであればあるほど、
同時に何かを手放す覚悟が必要
なのかもしれません。
今度はあなたが海に潜ることを
想像してみて下さい。
海に潜りたいと思うなら、
息を止める必要があります。
「海に潜る」という目標をかなえるために
「呼吸」を手放すわけですね。
もちろん、
息を止めるのはいやだから、
「やっぱり海に潜るのはやめよう」
その目標の方を手放すこと。
その判断も正解かもしれません。
だけど、
「海には潜りたいけど、
息を止めて苦しい思いをするのも嫌だ」
そう思って、
海の中で息を吸おうとしたら・・・
海にも潜れなかった。
息も吸えなかった。
海の藻屑への運命が待つのみ
となるわけです。
「『志をかなえる』という志」
それは代償として何かを手放す志。
それとセットなのかもしれませんね。
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人生でも
自分が得たい結果を
しっかりと頭に思い描いて
心に持ち続けること。
「志」を持つこと。
そして
代償を支払ってでも
その志を実現するという
「志をかなえる志」
を持つこと。
あとはやりぬくこと。
そうすれば必ず道は開ける。
目標は達成できる。
松下幸之助の教えは
そういうことかもしれませんね。
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