「生命の実相に学ぶ」(徳久克己 著)より
○生長の家では「病を治す」ともいい、「病気はない」とも言います。それをどのように説明しますか? (p.244)
『生長の家は病気に対しましても - 病気を治すという言葉を仮に使う人がありますけれども、病気を「治す」のではないのであって、「病気はない」なのです。それは哲学上の本体論の上から「病気は本来実在しない」と申し上げるのです。「病気を治す」とか「治りたい」とかいう言葉には病気というものを認めて恐れている恐怖心が入っているのです。だから精神治療の方から申しますと、「病気を治したい」その「たい」を脱却しなければ、恐怖心を伴うから治りにくいのです。だから、天理教でも「惜しい」「欲しい」「欲と高慢」 - これが迷いだと教えています。「病気はない、しなぬ」というのが生長の家の説くところであって、死なぬ、決して死なぬ - この永生の自覚に入るとき、恐怖心が滅して治るべきものならば速やかに速やかに治るにいたるのであります。』
( 生命の実相 第40巻(家庭教育編)のp.152(携帯版ではp.159) )
○治病宗教は低級でしょうか? (p.171)
『病気治療はただの肉体上の問題であって、それが魂の救いの上になんの関係もないからというので、病の治療が魂を救うことを使命とされている宗教の上に顕われてきたときには治病宗教として軽蔑せられがちであるが、この軽蔑する心こそ、いっそう軽蔑せられる資格があるのである。なぜなら「魂を救う」ということはその魂を業苦の束縛から解放することでなければならない。そして、病気とは実在でなく業の流転より生ずるものであるから、業の流転が解放せらるとき、ただちに、あるいはまもなく、病苦が消えるはずであるのは、映画がフィルムの流転によって映されている場合にフィルムの流転を截ち切れば、ただちに、あるいはまもなく、病苦が消え去るべきであるのである』
( 生命の実相 第27巻(久遠仏性編 上)のp.169(携帯版ではp.172) )
「新版 病気に勝つ 」(世界聖典普及協会)より
○医学と宗教 (p.30) より
宗教が病気を治すということについては、賛否両論があります。最近では医師の方からの批判ばかりでなく、宗教家自身からの批判も多いようです。しかし、病気を治すのは宗教でも、医者でも、薬剤でもありません。私たち内部の生命力のみが、病気を治す根本原因です。生命力が完全に発現されていれば私たちは健康であり、生命力の発現が何らかの形で制約されているときに病気が起こります。ですから、病気が治るためには、その生命力の発現の制約となっているものを取り去ればいいのです。その制約が物質的なものであれば、医師がそれを取り除きます。(中略)しかし、(中略)毒素を原因とする病気を完全に解消するには、体内毒素をつくる根本原因である患者の精神状態を改造するほかはありません。この精神面からの治療は(中略)宗教によって大悟徹底の境地に入り、不安や焦燥や不満足感を根本から取り去ることによっても得られます。