戦没者 及川眞市 20歳
昭和18年5月 出征
昭和20年8月 戦没 【戦没地 ミンダナオ島】
漫画と絵が大好だった眞市青年(私の叔父)のことを綴っていきたいと思います。
彼は亡くなったとき母、キクの前に霊となって現れました。
亡くなった時のままであったろうボロボロの軍服を着ていました。
「母さん、僕死んでいないからね。」
「母さん長生きするように守っていくからね、及川の家を守っていくからね。」
と言いのこして消えたそうです。
あとがき
今回でブログは最終回とさせていただきます。
これからも続けていきたかったのですが、60年も過去のこと遺品がほんのわずかしかありませんでした。
母・キクが亡くなった時、最愛の息子の遺品も一緒にと棺に入れたそうです。
息子の言葉どおり守ってくれたのでしょう、大病することなく93歳の大往生でした。
眞市の妹によると、とてもやさしくて純粋な人でした。
ものすごく集中して「ウ~ンウ~ン」うなりながら大好きな絵を描いていたそうです。
父が若くして病死し、母の苦労を見てきたせいかとても母思い。
終戦直後は生きて帰ってくると思い、家族中で布団を縫ったりごちそうを作ったり準備している中、
眞市の戦友が訪問し戦死したことを伝えられ、母・キクは一時おかしくなってさまよい歩いたそうです。
(亡くなった直後霊として現れた時は、生きているんだと思ったそうです)
>マスコットを抱いて喜ぶ妹の顔、喜代子はそれを一晩中抱いて寝ることであろう。
と、手記に出てくる眞市がお給料で購入し妹に送ったとても綺麗な花嫁人形。
戦死後、そのお人形の顔がだんだん悲しい顔になってきて見るのがつらくなり『おたきあげ』したそうです。
今まで眞市叔父の手記を読んで、共感していただいた皆様どうもありがとうございました。
短編作文『その29』
物音一つしない静かな周囲の中にぽつんと灯りのついているのは、なんとなく淋しさをそそる。
風がひとしきりさあーっと吹き抜けた。
それを聞きつつ、ぶるぶると身ぶるいをしながら電灯の下に坐って私は子供心に童謡を作っていた。
召され来たって早や二年
どんなに母さんかわったろ
僕もかわったつもりだが
どんなに母さんやつれたろ
召され来たって早や二年
毎晩おそく針仕事
今日の夢もそうでした
どんなに母さんやつれたろ
召され来たって早や二年
重荷を背おって僕のため
冷たい夜道をとぼとぼと
どんなに母さんやつれたろ
召され来たって早や二年
小川の岸で淋しそう
僕も男だ頑張るぞ
どんなに母さんかわったろ
どんなに母さんやつれたろ
第一回寄宿舎生活の巻終
昭和17年12月28日午前2時
我の思い出の寄宿舎は焼ける
昭和17年12月8日
大東亜戦争一周年記念
及川眞市著
短編作文『その27』
正月を迎えて『その7』
「折角だからお前の送って戴いた半分だけとっておきましょう。
お前がそういう細かいところまで気を配ってくれる心持ちは有り難いが、
姉さんやお前の可愛い妹には及ばずながらこの母がついています。
お前には心配かけませんよ。
お前は家を出る時なんと言いましたか。
工場で働くのは國の為につくすことだと言ったではありませんか。
それだからこそ母さんは淋しいながらも横浜へ行くことを許したのです。
だのにお前はお國のことを忘れ、家のことや妹のことばかり考えているようだが、
そんな女々しいことでどうしますか。
母さんはお前をそんな女々しい男に育てたつまりはなかったはずです。」
続く
眞市のスクラップ
短編作文『その26』
正月を迎えて『その6』
「眞市、お前が生まれてから初めて給料を戴いた時はどんなに嬉しかったろうか。
殊にそれが他人の中へ出て汗水たらして得たのだから、お前の嬉しさは充分に察します。
亡くなられたお父さんも、さぞかし草葉のかげで喜んでいなさるでしょう。
それから又、ちょっとしたことで人様にほめられたりおだてられて
いい気にのぼっていたら人世の道中は困難が多いのですから、よく反省して自重すべきです。
お前の昇給したことやほめられる事は、母さんは自分自身がなったよりも以上に嬉しいのです。
知人の方がご来宅になっても皆第一番にお前のことを聞いてくださるので
嬉しさのあまり手紙の文句通り話をするのです。
あとでいい気になって息子の自慢話をしたが、
あれで終わったらどうしようどうか立派な人間になってくれるようにと神様に祈らずにいられません。
××さんからお前の大きくなったら食べるようにと、大きなお茶碗を下さいました。
早速それに陰膳を据えています。」
続く
眞市のスクラップ