2018年に肺癌がわかり一時はよくなったものの今は病院で寝たきりになっている旦那のお姉さんを帰省のついでにお見舞いに行った。

つい何ヶ月か前は意識もあり元気だったと聞いていた。

でも今はずっと寝たきり状態だということだった。

肺癌の旦那が末期の患者の姿を見てよいものだろうかという思いはよぎった。

でも家族なんだから会えるなら会うべきだろうと思った。


旦那はそのお姉さんの生き方を批判していた。

だからお見舞いも積極的ではなかった。

出会った頃の旦那は家族思いの優しい人間だった。

なのにどうしてそう思うようになったんだろう。

あなたらしくないよと心の中でいつも思っていた。

でも結局言うことはできずにいた。


コロナは落ち着いたとはいえ、面会は厳しかった。

10分か15分だけだったと思う。

病室に案内されてベッドで寝るお姉さんと面会した。

目も閉じ、体も動かせない。

わずかに口元をモゴモゴさせているように見えた。

私は泣くのを堪えた。

旦那は涙ぐんでいた。

2人でありがとうと伝えた。

寝たきりでも耳は聞こえていると聞いていたので私は努めて明るい声でまた会いに来るねと話しかけた。

旦那も続けて同じようにまた来るよと言っていた。


お姉さんの寝る姿が旦那の姿と重なった。

もしかして旦那もあんな風に寝てしまうのか。

すぐに頭からかき消した。

そして旦那と2人であんな姿で生きているのは嫌だなと話した。

お姉さんは私達が来たことをわかったのかもしれない。

でも話すことも何かで合図することもできない。

看護師さんが言うにはわかっていて思うように体が動かせないからもどかしく少しイライラしていると言っていた。

そんな姿は地獄だと思った。

生き地獄、私はそう思った。

旦那は日頃から延命治療に反対だった。

お姉さんの姿を見て改めて自分はああなりたくないから延命はしないでくれと私に言った。

私は同意した。

あんなに辛いことはないよねと言った。


結果的に旦那はお姉さんのようにはならなかった。

でも旦那のお姉さんの娘はそれでもお姉さんが一日でも長く生きていてほしいと願っていたようだ。

どちらがよいのだろう。

生きている姿があるだけで残されるものは救われるということもある。

でも本人はどうだろう。

お姉さんはお見舞いの後2ヶ月生きた。

生きたと言えるのか。