最近全然投稿できてゐないな。
書く事がなくなつてゐるのだ。
それでも昔のことや、
今の氣持ちを捻り出して投稿していきたい。
ブログの內容を思ひついたら、紙に殘すやうにしてゐた。
何としても更新しないと駄目だな。
月に10囘は投稿したい。
最近全然投稿できてゐないな。
書く事がなくなつてゐるのだ。
それでも昔のことや、
今の氣持ちを捻り出して投稿していきたい。
ブログの內容を思ひついたら、紙に殘すやうにしてゐた。
何としても更新しないと駄目だな。
月に10囘は投稿したい。
南野真実さん
9月8日生まれ
サイズ T/158.0
大阪藝術大學短期大學部メデイア・藝術學科-大阪人間科學大學人間科學部 健康心理學科卒業
趣味・特技・資格・スポーツ
釣り、散步、チーズケーキを燒くこと
認定健康心理士 社會調査士 敎員免許(中學社會、高校公民、特別支援學校) 普通自動車運轉免許(AT限定)
聲がとてもいい。齒切れがいい。心地良い
ナレーシヨンに、DJに、
司會に・・・
大学で健康を支援する心理学を専攻。電波を通じて人々の健康を支援できる話題を提供する話し手、パーソナリティーが目標です!
野村克也「勝者の資格」より。
當時、常勝西武ライオンズの森祇晶監督がバントを多用してゐたといふ。
ある野球解説者が、
「もうちよつとフアンのための野球といふことを考へてやつてもらはないと困ります」といふ意味の發言をした。
見てゐた野村氏は「アホぬかせ」といつた。
野村氏は、
「『負けてたまるか』からスタートすれば、そこに執念が凝縮し、フアインプレー、ウルトラC、人間の領域を越えたプレーが生まれ、內容のある試合、白熱した試合にお客さんが興奮してくれる。」
といふ。
「何が何でも勝つのだといふ精神の延長線上に意外性の野球やハツスルプレーがある事を承知してゐる。」
プロ野球、約20年前觀戰した。
阪神對廣島戰だ。
阪神は低迷期で、エラーが多かつた事を覺えてゐる。
野次があつた。
何としても、勝つしかない。
個人記錄も大事だらう。
野球は個人競技ではない。
球團が勝つことが優先される。
勝つしかないのだ。
私の樂しい時間は、本屋に行つてぐるぐると囘る事だ。
1時間ゐて、何も買はず歸ることもある。
時間を損した氣持ちになるが、
本當に買いたいものがなかつたのだから仕方ないな。
今日も本屋に行き、
文庫本を2册買つて歸つた。
野村克也氏が書いた、
「巨人軍論」から記憶に殘つた言葉を取り上げる。
江夏豐選手が南海にトレードで入團した。
しかし野村監督は江夏選手の能力は評價するが、
態度に不滿を抱いてゐた。
「そんなときである。ある試合、二死滿壘フルカウントの場面でコントロールのいいはずの江夏がとんでもないボールを投げて押し出しで試合に負けたことがあつた。その歸りの車に彼を乘せ問ひ詰めた。」
「おまへ、
八百長やつてないか?」
「(中略)『もしや』と私は思つたのである。最初は笑つて取り合はなかつた江夏だが、(中略)次第に眞劍な表情になり、『絶對にやつてない』と明言した。が、そこで終はつてしまつては今までと同じである。私はさらに言つてやつた。『おまへが變な投球をするたびに、【八百長ぢやないか】と思ふ人間がたくさんゐる。そんな人たちにおまへが【やつてない】と言つても全く説得力はない。ピツチングで示すしかないんだ。たとへ時間はかかつても、信用を取り戾す方法はそれしかない。』」
江夏選手は「そんなことを面と向かってはつきり言つてくれたのはあんただけだよ……」と答へた。
そこから江夏選手は變はつたといふ。
「八百長」
恐ろしい言葉である。
永久追放となつてしまふ。
言ひにくい事を言ふ。
これも人の上に立つ者になければならぬ能力である。
正確な年は忘れたが、
平成6年位だらうか。
ある大學敎授がテレビに出演してゐた。
法政大學敎授の田嶋陽子氏だ。
その田嶋氏が出演してゐたCMが、未だに忘れられない。
CMの筋書きはかうである。
チヤイナドレスに身を包んだ婦人3人が歌ひながら踊る。
「探して見つけてね~、ニツセンのチラチラチラシ~」
「チラチラチラシ~」といふ時、チヤイナドレスの裾を搖らすのだ。
探してみると、あつた。
記憶通りの臺詞だつた。
もう30年にもなるだらうに、
變なことはいつまでも記憶に殘るものなんだな。
今日は大阪王將で食べた。
味噌ラーメンを餃子を食べた。
最近脂肪攝りすぎだなあと思ひつつ、
食べてしまふ。
少しでも運動していかないと太るなあ。
城ヶ﨑祐子さん
昭和30年2月28日生まれ
東京都立西高等學校-東京外國語大學外國語學部英米語學科-フジテレビ(S52-H9)
趣味・特技・資格・スポーツ
バレエ ピアノ
平成15年頃。
アリコといふ保險會社がテレビの廣告を出してゐた。
その出演者が城ヶ﨑祐子さんである。
何度も流れてゐた。
「城ヶ崎祐子」と字幕が出てゐたので、
强く印象に殘つてゐるのだ。
昭和52年フジテレビに報道局解説放送室付のリポーターとして
入社。當時、正社員として採用するのは男性だけだつたといふ。昭和56年に編成局アナウンス室に移動、正社員に昇格した。
昭和58年から昭和60年、平成5年から平成8年までニューヨーク勤務、歸國後は廣報局で勤務する。
ドラゴンボールGTのエンデイングで、
「廣報 城ヶ﨑祐子(フジテレビ)」
となつてゐる。
平成9年にフジテレビを退社する。