つづき→lunch
と、一気に濃い内容で午前中に回ったので若干記憶がバラバラ(笑)
これによって、記憶を整理する
さてさて、イタリアといえばやっぱりごはん

イタリアに行った人たちは口を揃えてごはんが美味しい!!と言います。
1日目の初イタリアごはんは、
Antica Trattoria Al Gallo1909
→くれーぴが薄くてパリパリ!かかっているソースはもちろんサーモンの卵。
濃厚で、包まれれた身も肉厚でほくほく。
メカジキのグリル サラダ添え
→オリーブオイルたっぷりで、少々酸味は強いし脂っこさがあるがメカジキがあっさりなので食べられる。
→とっても美味しそうに見えるかとおもいますが、かなりブルーベリーの酸味がきつい!
量も多かったのでかなり満腹でした。
午後は自由行動。都会だとそんなことはないのですが田舎のラヴェンナは日曜(Domenica)はほとんどのお店が閉まってしまいます。なのでこの日のうちに買い物はしておいたほうがいいとのことだったので、祖母をホテルへ送ったのち、母と買い物へ。
ポポロ広場周辺はお店も充実していて、しかもこの日は父の日!
だけど、父の日アピールをしている店はココだけでした、どこも父は大事がられないもんです。
Day 1 つづき
5世紀に、テオドシウス1世
の娘であるガッラ・プラキディアによって、キリストの聖遺物である『十字架』を納めたサンタ・クローチェ聖堂の付属建築物として建てられた。建設目的は前述のとおり分かっていないが、モザイク
画から推測すると、聖ウィンケンティウス
の信仰に対する記念礼拝堂であった可能性が高い。霊廟であることが正しければ、床面が創建当時から1.4m以上持ち上げられているため、埋葬の痕跡が遺っているかもしれないが、詳しい発掘はされていない。今日残っている石棺は4世紀と5世紀のもので、ガッラ・プラキディアの親族のものであるとされている。
アリアーニ洗礼堂
ユネスコの世界遺産の一部に指定されているのは、このクーポラ内部のモザイクがあるから。モザイクは、ネオニアーノ(正統派)洗礼堂からテーマを取っていて、アリウス派教会と正統派カトリック教会は、当初は対立していなかったということを示している。中央に洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けるキリスト、下部には使徒たちの行列がキリストの優位性を表す十字架を載せた玉座に向かっている。使徒たちを分けているのは、殉教者を象徴する実がなったナツメヤシの木。使徒たちは、ベールに被われた手に殉教と栄光の冠を持っている。玉座の右にいる聖ペテロは天国の鍵を、左の聖パウロは巻物を持っている。中央に立つのは、言うまでもなく若きイエス・キリスト。右側はキリストに洗礼を授ける聖ヨハネ(洗礼者ヨハネ)。画像の中の左側にいる老人は、キリストが身を浸すヨルダン川を象徴しているんだそう。老人の頭の上には、赤いカニのハサミが描かれている、面白い。
ラヴェンナ Day 1
ここがラヴェンナ滞在ホテル・NH HOTEL RAVENNA
ラヴェンナ駅まで徒歩1分、道向かいにはs.Giovani Evangelistaがあります。
午前中は、添乗員さんの案内でサンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会、サン・ヴィターレ教会、ダンテの墓、アリアーニ洗礼堂、ガッラ・プラチーディア廊へ。
サン・ヴィターレ教会
ビザンティン建築
・初期キリスト教建築の代表的な聖堂
(教会堂)であり、カトリック教会
のバシリカ
。6世紀
前半に建設された。ラヴェンナでは非常に著名な聖堂であるが、司教座聖堂
ではなく、聖ウィタリス
の聖遺物を信仰するためのマルティリウム(殉教者記念礼拝堂)である。八角形の集中式平面というかなり特殊な平面構成を持ち、9世紀
の歴史家アグネルス
は、他のいかなるイタリアの教会建築とも類似しないと述べている。
ラヴェンナは、6世紀以降東ローマ帝国 のイタリア統治の拠点として総督 府が置かれ、繁栄を謳歌したが、8世紀 初頭には東ローマ帝国から分離・衰退した。このため東ローマ帝国での聖像破壊運動 の影響を受けることはなく、サン・ヴィターレの内陣部には初期ビザンティン美術の美しいモザイク画が残る。近接して、ガッラ・プラキディア廟堂 が建つ。周辺の建造物と共に世界遺産 に登録されている。
サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会
キリスト教 の教会堂 であり、カトリック教会 のバシリカ 。東ゴート王国 の王テオドリック によって、宮廷に隣接して建設された、アリオス派 の数少ない遺構のひとつである。美しいモザイク 画が残ることで非常に有名。
ダンテの墓
ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri、1265年 - 1321年 9月14日 )は、イタリア の都市国家フィレンツェ 生まれの詩人 、哲学者 、政治家 。代表作は彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲 』および詩文集『新生 』。イタリア文学 最大の詩人とされ、ルネサンス の先蹤ともいわれる。
『神曲』地獄篇、煉獄篇、天国篇の三篇。ベアトリーチェに対する神格化とすら言えるほどの崇敬な賛美と、自分を追放した黒党および腐敗したフィレンツェへの痛罵、そして理想の帝政理念、「三位一体」の神学までもが込められており、ダンテ自身の波乱に満ちた人生の過程と精神的成長をあらわしているとも言える。とくにダンテが幼少期に出会い、その後24歳にして夭逝したベアトリーチェを、『新生』につづいて『神曲』の中に更なる賛美をこめて永遠の淑女としてとどめたことから、ベアトリーチェの存在は文学史上に永遠に残ることになった。
ダンテは1318年 頃からラヴェンナ の領主 のもとに身を寄せ、ようやく安住の地を得た。ダンテはラヴェンナに子供を呼び寄せて暮らすようになり、そこで生涯をかけた『神曲』の執筆にとりかかる。そして1321年に『神曲』の全篇を完成させたが、その直後、外交使節として派遣されたヴェネツィアへの長旅の途上で罹患したマラリアがもとで、1321年9月13日から14日にかけての夜中に亡くなった。客死したダンテの墓 は今もラヴェンナにあり、サン・フランチェスコ教会の近くに小さな霊廟 が造られている。フィレンツェはたびたびラヴェンナにダンテの遺骨の返還を要求しているが、ラヴェンナはこれに応じていない。










