
写真だけアップしたあと、当分、この人の情報を追加するのを忘れていた。
場所は萩市平安古地区、萩の三角州でいえばもっとも西詰めの橋本川沿い、国道191号線の南側に位置する。長門市・下関市方面に向かう玉江橋にほど近く、この一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に指定されている。
ほんとうに日の当たらない人なので、やや詳細に略歴をまとめておく。
生没年は寛政12年~文久3年(1800~1863)。幕末の長州藩士。藩士佐藤某の子として、萩城下に生まれ、幼くして藩士坪井家を継ぐ。江戸方右筆から同相談人兼手元役に進んで藩政に加わり、建白書を提出して天保の改革に有力者として参加する。弘化元年(1844)村田清風が退くと政権を担い、公内借捌の法により藩士の負債を軽減させたが、かえって藩財政の赤字が増大したことにより、責任を追及されて隠退する。
村田派の周布政之助による改革後、安政2年(1855)坪井の後継者である椋梨藤太とともに藩政に復帰し、藩政改革に着手する。産物取立政策を実施し、のちに萩を訪れた梅田雲浜の意見を受け入れ、上方との交易を開始する。その後、周布派の反対にあって羽島に流され、結党強訴の罪名により野山獄で処刑された。
こんにち、松下村塾や高杉晋作誕生地あたりは大勢の観光客でにぎわうが、坪井の旧宅をわざわざ観に来るような観光客はきわめて少ない。が、これからは正義党とか俗論党とかの壁をできるだけとりはらって、真理に迫る必要があると考えている。
情報追加 2009/03/18