
文久2年(1862)1月、鈴木勘蔵がこの場所で営む宿に、土佐の坂本龍馬がやってきた。迎えたのは長州の久坂玄瑞で、また偶然にも、薩摩の田上藤七がここに居合わせたという。
後年の薩長土の同盟にまでは直接的につながることはないが、ここで重要なのは、久坂が龍馬に、亡き師・吉田松陰譲りの「草莽崛起論」〈そうもうくっきろん〉を吹き込んだことである。
草莽崛起というのは難しい言葉だが、直訳すれば、「草莽」=在野の志士が「崛起」=立ち上がるという意味である。これをもっと突っ込んでいえば、既存の権力者、すなわち当時で言えば将軍・大名・公卿らが頼みとならないので、国を憂える志のある者が立ち上がらねばならない、という考えなのである。
しかも久坂は、龍馬に対して、「君たちはまだ土佐藩というのにこだわっているのか。これからは諸藩の志士が藩という枠組みを乗り越えて、一つに結集せねばならない時代なのだ」というようなことを述べたらしい。この時、龍馬は土佐勤王党の盟主である武市半平太の使いとして萩に来たわけであるが、7つほども年下の久坂に、さぞかし衝撃を受けたに違いない。
この出会いこそが、龍馬の人生を大きく変えたと考えられる。つまり、久坂によって目を覚まされた龍馬は、土佐藩という枠組みから抜け出て、いわゆる脱藩を行い、東奔西走することとなったのだ。
人の出会いというものは、一見偶然に思えて、じつは必然であったのかもしれない。人的ネットワークの存在を探ることほど楽しいことはない。