去る5月31日(土)の読売新聞朝刊、文化面に、またも興味深い記事が載っていた。
見出しはつぎのようである。
「迷走」北九州市立美術館 テーマにシンポ 「市民に密着」原点再確認
文化部の矢田民也記者によると、北九州市で5月26日、「わたしたちの北九州市立美術館」という題でシンポジウムが開かれた。同美術館では近年、学芸員の退職が相次ぎ、また寄贈作品が放置されるなど、迷走ぶりがしばしば伝えられてきていたため、館や職員が槍玉にあげられるのではないかと危惧された。ところが、フタを開けてみると、意外にも建設的に、美術館のあるべき将来像をめぐる論議が展開されたというのである。
北九州市立美術館は、僕ら業界の人間から見れば、昭和49年(1974)に開館して以来、西日本における公立美術館の草分け的存在として注目されてきた館である。とくに重要なのは、開館と同時に全国で初めてボランティア制度を導入した点だ。このような美術館が、現在、窮地に追い込まれていると言うのである。
それには、学芸員の専門性が大きく影響しているらしい。すなわち、学芸員が専門性を高くすればするほど、まず事務職員との間に溝が深くなるというわけだ。博物館・美術館を揶揄した表現に、「敷居が高い」というのがあるが、まさにそれであろう。
話を戻すと、この記事でのポイントは、34年前の同館の開館当初に掲げられた「リビング・ミュージアム」という基本概念が再確認されたことである。要は、「市民生活に密着した生ける美術館」というのがそもそもの原点だったというのだ。
しかし記者いわく、「だが、それは具現化したのか。ニューヨーク派や草間弥生などの企画展で「現代美術の北九州」のブランドを確立したが、一方で、市民生活からは遠いものになっていたのではないか――パネリストからはそんな疑問も呈された」。
そこで記者が引き合いに出しているのが、金沢21世紀美術館である。昨年度、約133万人もの入場者を集めたというのは驚愕の数字だが、かつて金沢21世紀美術館の特任館長の蓑豊氏は「21世紀の美術館は生活の一部として存在しない限り生き延びていけない。日本の美術館は生活から離れすぎていた」と語ったという。
こうしたことから、記者は「現代美術に強い」という個性、そしてそれに対する美術館界からの評価を生かしつつ、今後は市民生活に溶け込むような飛躍を願っているというふうに記事を結んでいた。
シンポを主催したNPO法人創を考える会・北九州は、今後、さらに2回、3回と議論を重ねてゆきたいと言っているそうだが、このシンポは、伝統ある美術館のいわゆる第三世代の博物館(美術館含む)への転化をうながす、絶好の機会だったのではないだろうか。
日本における博物館の成り立ちが、民衆への上からの啓蒙というスタイルをとっていた以上、そもそも博物館は市民感情からほど遠いところにあった。よって今後は、一般市民が気軽に、ふらっと立ち寄れる空間に生まれ変わる必要が博物館にはある。そうした模索の一事例として、「リビング・ミュージアム」という概念は、たいへん参考になる考え方と思われた。
見出しはつぎのようである。
「迷走」北九州市立美術館 テーマにシンポ 「市民に密着」原点再確認
文化部の矢田民也記者によると、北九州市で5月26日、「わたしたちの北九州市立美術館」という題でシンポジウムが開かれた。同美術館では近年、学芸員の退職が相次ぎ、また寄贈作品が放置されるなど、迷走ぶりがしばしば伝えられてきていたため、館や職員が槍玉にあげられるのではないかと危惧された。ところが、フタを開けてみると、意外にも建設的に、美術館のあるべき将来像をめぐる論議が展開されたというのである。
北九州市立美術館は、僕ら業界の人間から見れば、昭和49年(1974)に開館して以来、西日本における公立美術館の草分け的存在として注目されてきた館である。とくに重要なのは、開館と同時に全国で初めてボランティア制度を導入した点だ。このような美術館が、現在、窮地に追い込まれていると言うのである。
それには、学芸員の専門性が大きく影響しているらしい。すなわち、学芸員が専門性を高くすればするほど、まず事務職員との間に溝が深くなるというわけだ。博物館・美術館を揶揄した表現に、「敷居が高い」というのがあるが、まさにそれであろう。
話を戻すと、この記事でのポイントは、34年前の同館の開館当初に掲げられた「リビング・ミュージアム」という基本概念が再確認されたことである。要は、「市民生活に密着した生ける美術館」というのがそもそもの原点だったというのだ。
しかし記者いわく、「だが、それは具現化したのか。ニューヨーク派や草間弥生などの企画展で「現代美術の北九州」のブランドを確立したが、一方で、市民生活からは遠いものになっていたのではないか――パネリストからはそんな疑問も呈された」。
そこで記者が引き合いに出しているのが、金沢21世紀美術館である。昨年度、約133万人もの入場者を集めたというのは驚愕の数字だが、かつて金沢21世紀美術館の特任館長の蓑豊氏は「21世紀の美術館は生活の一部として存在しない限り生き延びていけない。日本の美術館は生活から離れすぎていた」と語ったという。
こうしたことから、記者は「現代美術に強い」という個性、そしてそれに対する美術館界からの評価を生かしつつ、今後は市民生活に溶け込むような飛躍を願っているというふうに記事を結んでいた。
シンポを主催したNPO法人創を考える会・北九州は、今後、さらに2回、3回と議論を重ねてゆきたいと言っているそうだが、このシンポは、伝統ある美術館のいわゆる第三世代の博物館(美術館含む)への転化をうながす、絶好の機会だったのではないだろうか。
日本における博物館の成り立ちが、民衆への上からの啓蒙というスタイルをとっていた以上、そもそも博物館は市民感情からほど遠いところにあった。よって今後は、一般市民が気軽に、ふらっと立ち寄れる空間に生まれ変わる必要が博物館にはある。そうした模索の一事例として、「リビング・ミュージアム」という概念は、たいへん参考になる考え方と思われた。