「願い事」
 
 「もしもたったひとつだけ願い事が叶うとしたら、あなたは何を願うかしら?」
 それはごくえりふれた質問だった。もしそれが、初対面の会って間もない女性からなされたもので無ければ、という話だが。
「失礼?」
 僕はよく脈絡が分からないまま聞き返した。まさか仕事の関係で喫茶店で待ち合わせをしただけの相手に自分の願い事を聞かれるだなんて思わない。しかし相手は同じ質問を繰り返した。
「たったひとつだけよ。後戻りは出来ない。叶ってしまった願いも、そのあとの人生も、あなた自身が引き受けなくてはならない。よく考えてみて」
「分からないな」
 僕は苦笑して答えた。
「何しろ僕は、あまり自分の人生で願いが叶った経験がないものだから」
「これから叶う事だってありうるでしょう?」
 彼女は僕の目を覗き込みながら言った。不思議な目だった。奥行きが掴めず、捉えどころの無いその瞳を眺めているうちに、いま自分がどこにいるのか見失ってしまいそうだった。
「何も望まないんじゃないかな」
 しばらくしてから僕は答えていた。それは本当に自然に自分の内側から出た答えだった。
「何も望まない?」
「正確に言うなら、僕の願いが叶うことによってこれから先の自分の人生が変わる事を望まない。どうせ自分の人生を変えるなら、いつだって僕は自力で変えたいと思っています。たとえそれが自分の思い通りの変化で無かったとしてもね」
 しばらく彼女は僕の目を見ていた。
「このお仕事引き受けるわ」
 彼女は言った。
「あなたからのお仕事だから引き受けるわ。正確に言えばね」
 彼女は小説家で、僕は執筆の依頼を引き受けて貰うために出版社からやって来たのだった。
「ありがとうございます」
 僕はきつねにつままれたような面持ちで言った。
「きっといい小説になる。主人公はとても真っ直ぐな青年で、自分の人生は自分で切り開くことを信条としている。そのためにいくつもの困難を乗り越えなければならないとしても、最後にはきっとそれを乗り越える覚悟でいる。たとえその結末が自分の思い描いたもので無かったとしても、それを受け入れるつもりでいる。それがどんな結末であったとしても」