「温泉宿」
 
 鄙びた温泉宿に妻と二人逗留していた。夏の終わりの滞在客は少なく、二人で浴衣に下駄を突っ掛けて離れにある露天風呂まで人影のない夕暮れの小道を歩いて行った。途中、妻は下駄の調子がおかしいらしく、しゃがみ込んで具合を確かめていた。どうやら鼻緒が取れ掛けているらしく、しばらくいじいじとそれを触っているのを私は尻目に見ていたが、ふと妻のうなじに黒子があるのを見とめた。おや、こんなところに黒子があったか知らんとしげしげと眺めているうちに妻の姿が別人に見えてきた。これほど見知った仲も無かろうというぐらいにお互いの事を知っているはずが、黒子があるのを知らぬ場所があったのかと、今更ながらに妻のことが他人に見えて来たのだ。思えばウチに嫁いで来るまでは赤の他人として暮らして来たのであるが、そんな当たり前の事をついぞ失念して来た事に我ながら驚いた。そしてどうやらこの女は純潔では無かったのではないかと疑念を持った初夜の記憶を生々しく思い返したりしているうちに、妻が立ち上がって私の肘にすがりついて来た。
「あぁ、歩きにくい」
 そう言って笑う妻から目を逸らし、私は日の暮れかかった小道を先へと進んだ。私の知らぬ顔の無い男にもそう笑い掛けたことがあるのだろうか?次から次と浮かんで来る情景を振り払うように私は先へと急いだ。急に寒々しい風が吹いた気がした。