木更津駅近くにある八剱八幡神社です。⛩️
その昔この神社のあたり一帯の地を八剱の里と呼ばれて、里の神は八剱の神として祀られていたそうです。
この神社は、日本武尊、源頼朝、徳川家康にもゆかりがあります。
御祭神は
誉田別命(ほんだわけのみこと)(應神天皇)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)
素盞嗚命(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
の五柱になります。
「手水舎」
「御神水」
「源頼朝 お手植えの蘇鉄」
「源頼朝 お手植えの蘇鉄説明」
この蘇鉄は「森家」から木更津銀行の頭取が譲り受け、その後神社に奉納したものです。
森家はその昔、今の君津の山中に住んでいた。
この森家の前は旅人が休息をとった地であった。
源頼朝も北上の折、疲れを癒す為にこの地で休息した。そのお礼として蘇鉄を植えたとのこと。
「関東一大神輿」
「本殿」
「参集殿 正面」
「参集殿 左前」
「参集殿 右前」
「参集殿 横」
参集殿の写真が多いのは、日本武尊の鬼瓦と屋根の棟に飾られたハート形がある巴が撮りたかったので☺️
ちなみにこの写真の中にハート形の巴があります😆
「御朱印帳」
◆日本武尊
12代景行天皇の時代、日本武尊が東征のおり、走水(はしりみず)の渡り(現横須賀市)から房総へ船で渡る際、浦賀沖で暴風雨に遭い船は沈みそうになった。
その時、日本武尊の妃である弟橘媛命(おとたちばなひめ)が『これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり』と身を投じた。海は鎮まり日本武尊は、此の地に上陸することができた。
姫の死を悼んでしばらく此の地を去ることをしなかったので、「君去らず」と呼ぶようになり、なまって現在の「木更津」になったと伝えられています。
んっ久々にこの話しを・・・🤔
静岡の焼津神社、湯島の妻戀神社で聞いたんだ‼️
ちなみに隣の君津市も「君去らず」から「君津」と呼ばれるようになり、隣の袖ヶ浦市は「弟橘媛」の衣服の袖が流れついたことから「袖ヶ浦」と呼ばれるようになったと🧐
◆源頼朝
源氏再興のための旗揚げをした源頼朝が、一度は石橋山の戦いで敗北し安房国へ退去後、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤の加勢を得て勢力を盛り返し、木更津の地を通過する際、ここの八剱八幡神社で戦勝祈願をしたそうです。
その後平家を打倒し、源頼朝鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営したそうです。
ここには源頼朝お手植えの蘇鉄があります。
◆徳川家康
天正19年社領3石2斗を寄進され、御朱印の証を授与される。
慶長17年大阪冬の陣で木更津より多くの船頭が召出され、向井忠勝、小浜光隆軍のもとで目覚しい働きをした。
これも八剱八幡神社の霊験加護のたまものであるとして、こちらの宮司らを駿府城内に招き、銅鳥1隻と銀子を贈る。
この八剱八幡神社から少し北へ行ったところにある吾妻神社です。⛩️
昔、この地は吾妻の森といい、中心の池が鏡ヶ池です。
御祭神は日本武尊の妃である弟橘媛命(おとたちばなひめ)です。
身を投じた弟橘媛の袖がこの近くに漂着したのでこれを納めて吾妻神社を建てたと言われているそうです。
『君去らず 袖しが浦に立つ波の
その面影を 見るぞ悲しき』
是非一緒にお立ち寄りください😊
「吾妻神社説明」
「本殿」
「鏡ヶ池説明」
日本武尊や従者たちがこの池の水で喉を潤し、水面を鏡がわりにしたと言われており、弟橘媛の鏡を沈めた池とも言われています。
こちらがこの池の由来です。
「鏡ヶ池」
「富士塚」
「木花咲耶姫命の碑」
「金比羅宮」
「稲荷宮」
「山王宮」