今年は2月6日からミラノ・コルチナ冬季五輪が開かれる。スキー・ノルディックのジャンプ、距離、複合では偉大な選手が輩出し、コルチナでもメダル候補が多い。しかし、アルペン種目だけは何の話題にもなっていない。
コルチナ・ダンペッツォと言えば、1956年に行われた冬季五輪の回転で猪谷千春選手が銀メダルを獲ったのが思い出される。その後70年近く、オリンピックのアルペン数種目で誰一人メダルを得ていない。猪谷選手は当時としては珍しく欧州に長く滞在して鍛えていたが、後に銀メダルについて「私は言葉が喋れたのも大きかった」と語っている。各国の選手同士、関係者とのコミュニケーションを取ることが競技にも重要だという意味だろう。また、必要な外国語を相変らずきちんと学ぼうとしない選手に対する皮肉だったかもしれない。
私は報知新聞で「SKI&SKI」という雑誌を編集していた時期があり、1970年代後半から80年代にかけてワールドカップを中心に取材していた。フリーのカメラマンと欧州各地の転戦を追いかけ、行けば暮れから40日くらいかかった。
アルペンのレースは、回転でも滑降でも優勝と2位を分けるのは100分の数秒で、100分の1秒というのも珍しくはない。滑降など3000m以上滑ってもスキーの長さの差もないこともある。あるレースを計算したら、勝敗はスキーの25㎝差ということがあった。どのレースでも1秒開いたら勝負の外になる。
猪谷が銀メダルを獲得したコルチナ・ダンペッツォで初の三冠王になったのが20歳のトニー・ザイラーだった。彼は回転、大回転、滑降のすべてで3秒以上引き離して勝った。これはとんでもないタイム差で、文字通り図抜けたヒーローだった。20年後、彼がカナダのウイスラーマウンテンスキー場で夏季教室を開き少年少女を教えていた。別の取材で居合わせた私にも、偉大な実績を鼻にかける風もなく話をしてくれた。ゲレンデも小まめに動き回って指導を続け、子供たちは親切なおじさん先生とのスキーを楽しんでいた。
回転、大回転、スーパー大回転、滑降の4種目とも、何人出場しても第1シードの15人、第2シードの15人が勝てる対象になる。欧州のコースは雪の上を滑るというより、全体がアイスバーンになっている。それでも30人も滑ればコースは掘れてしまう。30番目スタートの選手がゴールすると表彰式が始まるのが普通だった。その後の選手が3位以内に入ることはまずないからだ。
体力的には劣っても器用な日本選手はスラローム系(回転、大回転)では対等に戦えそうだが、ワールドカップでは1988年の岡部哲也とその後の佐々木昭が2位に入ったことがあるのがベストだ。滑降に至っては、15歳からシャモニーに留学していた女子の川端絵美が1993年に3位に入ったのが目立つ。男子では1980年、ワールドカップでも最長4000mを超えるスイスのウエンゲン滑降で片桐幹雄が13位に入った。参戦してからトップから6秒以上は離れて苦しんでいたが、この日は1・5秒差。「なんとか5秒差以内に」と思い込んでいた片桐は満面の笑みだった。その夜、カメラマンと街の出ると何人もから「ニッポン、おめでとう」と声をかけられた。日本選手が上位に来ることは彼らにとって驚きだったのだ。
話が古いのは、私が取材していた時期から40年以上経っているのにアルペン種目では取り上げるべき成績がないからだ。ではなぜなのか。
日本は欧州などと比べてレース数が少ない。
塩などで固めてもバーンが欧州などと比べて柔らかい。
滑降など体重差、筋力差が大きい。
スキーブームが下火で選手が育たない。
いろいろあるだろうが、日本にいては世界で勝てないのは確かで、少年少女時代から欧米で鍛えるしかない。ただそれを支える資金力がない。他の競技と違って世界に通用する用具(板、靴など)がないのもスポンサー不足に繋がっている。
ワールドカップでは、プレス(報道)は回転でも滑降でもレースの前にコースの下見が許される。旗門通りに滑ってはいけないが、柵の中に入りゴールまで滑り降りる。コルチナ・ダンペッツォの滑降コースには奈落の底に落ちるような壁があり、観衆が囲む中デラパージュ(横滑り)で辛うじて下り、観客からピューピューと口笛を吹かれた記憶がある。それでも、片桐が13位になったウエンゲンの鏡のように磨かれたバーンを一気に滑るときは、いつも思わず声を上げて歌いたくなった。伊東慎吾