たいろ~の母の人生は壮絶です。父はいつか母の人生を本にしたいと願っていた。それほど過酷な人生を生きてきた人だった。最後を迎えるとき、母は一番幸せな時間を過ごせてたように思います。たいろ~は頑張れたと思う。
母は戦前の昭和10年10月、岡山県の津山市近くのとても山深い山村に生まれました。たいろ~は何度も行ったけど、母の実家の奥にはもう人の住む家が無かったので、キジ・クマ・イノシシなどなど目撃できる田舎でしたよ。
母が生まれてすぐに順番はどうだったか覚えていませんが、母の父親と母親は両方共亡くなったそうです。母がまだ5歳頃に母は天涯孤独の身となりました。5歳の子供が一人で山奥の家に住むわけには行かず、近くに住む親戚の家で母は暮らすことになりました。そこには4人?のお姉さんと一人の母より小さい男の子がいました。農村での暮らしなので、最初の母の仕事は男の子の子守でした。身寄りのない母の一番の友達はその男の子で、母のことを「ちいねえちゃん」と呼び、懐いてくれてたそうです。食事は質素なものながらも、山の暮らしは食物がないという事はなく。新しい家族の一員となり、母にとってはうれしいことだったようです。しかし、母が面倒を見ていた男の子も母の両親の後を追うように、病気で亡くなったしまったのです。母が高齢になって体を悪くした頃、この男の子のことを思い出すと言ってましたから、それは相当なショックを受けたのだろうと思います。
母が小学生になった時、一番小さい女の子の母だけ薪木を集めながら帰らなければならなかったそうです。母の小学校は家から遠かったはず、他の姉たちは遊びながら、ふざけながら歩いて帰るのに、母だけはせっせと薪木を拾いながら家に帰らなければならなかったそうです。学校から帰れば、姉たちが遊んでいても、母だけは農作業を手伝う日々が続き、家で勉強をすることがなかった母は、小学校の勉強にもついて行けない有様だったそうです。山深い山村ですから、冬には雪が積もります。正月は母の実家に遊びに行き、雪遊びをするのが毎年恒例だったのですが、母は雪の中をわらじで小学校に行ったそうです。姉たちはというと全員長靴を履いてたそうです。自分の子ではない子を育ててくれるのですから、贅沢が言える身分でもなく、そういう時代でもあったので、それは仕方のないことかも知れませんが、大変なことだったと思います。
小学校も高学年になり、母も修学旅行とやらに行く年齢になりました。しかし母は親戚の家に引き取ってもらってる身分です。修学旅行とは言え、多少のお金が掛かることなので、母は先生に自分は修学旅行に行けないと伝えました。ぞの金額はわずかの金額だったので、先生は私があなたの継母に言うからあなたも来なさい。人生の中で最初で最後になるかも知れないみんなとの思い出を先生は残すことができるようにと親身なって心配してくださったそうです。それでも母はそのことを継母に伝えることもできず、初めての旅行に行くことができず、その先生のことを時折思い出しては、あの先生は立派な先生だった。本当にありがたかったと言っておりました。
母が中学に行ったとは聞いておりません。たいろ~は母の中学時代の話題を聞いたことがありません。おそらくどこかに奉公に出されたのだろうと思います。順序はわかりませんが床屋と医者の家で奉公してたはずです。たいろ~は子供の頃、母はたいろ~の髪の毛を風呂場でいつも母が切ってくれてました。今思えば、ハサミの音が軽快でとても楽しそうだったように思います。母が美容師を目指してたかどうか知りませんが、人の頭を散髪して褒められたのでしょう。おそらく母は初めて人から褒められた作業が散髪だったのではないでしょうか?だからたいろ~の髪を切る時、それを思い出して、これは私の得意分野とばかりに一生懸命に、そして楽しく髪を切っていたのだろうと思います。
しかし、もう一つの奉公先が悪かった。母にとっては最大の悲しみを背負うことになってしまったのです。母は津山市の医者の家で家政婦のような仕事をしていたそうです。料理を習ったわけでもなく、良い家柄に生まれて教育を受けたわけでもない母が医者の家で家政婦をさせてもらったということは、医者が母を気に入ったからに他ならなかった。母は麻酔で眠らされて悪戯を幾度なくされたらしい。そして妊娠させられてしまったのです。どんどん大きくなるお腹を必死に隠して、医者の奥さんにバレないように、奉公先を追い出されないようにと努力したと聞きました。もちろん最終的には奥さんにわかってしまい。継母を呼び出され、泥棒猫呼ばわりです。そこまで誰にも相談できなかった母は、その子供を堕ろすこともできる状態ではなくなり、産んだところで育てる経済力はなく、支援してくる人もなく、もちろん継母が面倒見るわけもなく。母は初めての子供を手放さざるを得なかったのです。その子供が望まれて生まれる理由ではない。自分が欲しいと願った理由でもない。しかし、母にとっては唯一の血を分けた家族。自分が子供の頃に両親を失った悲しみを知ってるだけに、その子供に寂しい思いだけはさせたくなかったのだろうと思います。たいろ~が10歳頃に実はその人に会っているのです。一度しか行ったことの無い場所ですが、なぜかはっきりと場所を覚えています。そこが忘れてはならない場所だと魂が記憶してるのだろうと思います。その時はそれが誰だかわかりませんでした。母とその人が二人で部屋にこもって話をしてしました。たいろ~は挨拶をした程度なので、その人の顔すら覚えていません。しかし不思議と場所は覚えています。そして母の遺言とも言うべき言葉が、私が死んだらその人にだけは伝えて欲しいと言うことでした。母がどれほど気にかけていたのかが窺えました。しかし手放した子。そこで可愛がってもらってるならば、波風を立てる真似もできない。近寄らないのが、その人とその家族にとって幸せであるだろうことは、母にもわかってました。だから死ぬまで、死んでからしか会えないとわかっていたのです。
そのあと、なぜ母が京都に移動したのか知りません。京都のお店で女中のようなことをしていたようです。そこで父と知り合った。その頃には卵管破裂、子宮筋腫の後遺症などから子供は産めないだろうと言われていました。父は全てを聞いた上で一緒に暮らそうと言いました。そしてたいろ~を授かった。授かってしまった。母は父の子供だから死んでも産みたいと願ったようです。父方の親戚から馬鹿にされ、蔑まされ、例え結婚ができなくても、父の子供だけは産みたいと思ったようでした。父の必死の抵抗により父方の親戚を納得させ、結婚そして入籍を認めてもらえました。出産はとても危険な状態だったようです。たいろ~には弟がいます。その時も母は死んでもいいから産みたいと言っていました。そして産んだ時、顔色がかなり悪かったことを覚えています。同じ状況だったのだろうから、相当危険な出産だったはずです。
その後、何かあれば父の実家に行くわけですが、たいろ~が二十歳になる頃まで、母は父の身内から旧姓で呼ばれ続けました。辛かっただろうと思います。たいろ~はこの話を聞いたけど、旧姓で呼ばれ続けたんだからと説明を受けた程度で、腹が立つとか許さないとかは聞いていません。そのことはどうでもよかったようです。父がいて、たいろ~がいて、それで十分だったようです。
弟?
あれは家族で麻雀する時、4人目が必要だったから・・じゃないかな?
母には自分の家族と言える存在を手に入れることができた、そして諦めていた最愛の人の子供も生むことができた。父は母と結婚したからダメになったとは言われたくなかったのでしょう。さらに勉強して仕事を励み、そこそこの暮らしができる状態になりました。友達もでき、酒を飲んだり、歌ったり、それは夢にも思ってなかった自分の人生を手に入れることができた。しかし、たいろ~が学校に行くようになり、それまでは何とかごまかして生きてきたことが問題となった。学校の先生やPTAの便りの返事。どうしても字を書かなかければならない。学の無い母は、そのことをよく気にしていました。正直、手紙やはがきを書くのすら、小学生のたいろ~に頼むほどでした。でも、母も頑張りました。お料理を覚えたい。美味しいものを作りたい。その一心から、テレビのレシピを書き留めたり、読めないような文字もいつしか読める程度になりました。母の死後、いろんなところから、紙切れや手帳の端にいろんなレシピが書き残されてました。概ね、たいろ~の好物の食材または食べれる食材が主でした。ああ、ありがたや・・・。学校のPTAや自治会の役員にもなったり、人に頼られたり、おそらく自分がそんな人生を歩むと思ってなかったでしょう。
たいろ~の幼稚園時代から高校生になるまで、順風満帆・・・?金銭的には問題なく、友人もでき、幼少期の母には、自分がそうなるとは思っても見なかった、夢のような生活だったはずです。あの頃の母は生き生きとしていた。ご近所とも仲良くさせていただき、お花やお茶なども習いに行ってました。
たいろ~が大学に通ってる頃、父親の努めていた会社が倒産してしまいました。父と母は退職金で喫茶店兼小料理屋を開き、何とかやっていけると考えたようでした。会社が倒産した頃、父は50を超えていた。今更、よい就職を期待できず、父は焦っていたはずです。しかも受け取れる退職金は、予想以上に多くはなかったのです。でも、母はそのことを気にしなかった。お店を繁盛させればそれでいい。みんながいればそれでいい。
母に原価管理なんかできず、荒れてる父が店で飲んでいては、支援してくれる近所の友人も離れてしまう。さすがに母が父に店に来るなと言い出したことで、父の荒れ具合はさらにひどくなった。息子と旦那は首の締め合いをして喧嘩。それまでの人生が嘘のように転落して行きました。そしてお店も閉めることとなり、父も母もたいろ~も3人で警備会社に勤めることになったのですが、たいろ~の幼馴染のお母さんが、自分のお店で働かないかとのお誘いを受け、母は単身で別居生活になりました。1年ほど、単身で生活をした頃、父もたいろ~も転勤となり、母のいるマンションに全員が転がり込むことになり、生活の時間はズレ、狭くてボロいですが、家族全員で何とか生活することとなりました。
たいろ~が栄転となり、たいろ~だけ一人で隣の街に暮らしだした頃、あの大地震が神戸に住む両親を襲ったのです。母は2時まで営業しているお好み焼き屋で働いて、片付けて帰宅したのが4時頃、父は体調を崩していたので、その日から出勤しようとコタツに足を入れ起きていたそうです。ド~~~ン!ゴゴゴゴーー!大きな地震は母のいる5階建てのマンションの3階から上を叩き潰したのです。建物の鉄骨が曲がり、母と弟は床と天井の間、家具の作った隙間で大怪我をすることもなく、身動きが取れないと言うだけの状態だったのですが、座っていた父は、倒れてきた天井を頭で受けてしまったのです。真っ暗な空間に多くの人のうめき声、鳴き声、助けを呼ぶ声が聞こえる中、母の耳には父のう~う~と苦しむ声が聞こえてました。助けたいが身動きができない。わずかに指が父の体に触れる。「お父さん、お父さん、しっかり。頑張って。」何度も声をかけて励ましたのですが、1時間ほどした頃、父から脱糞した匂いを感じ、母は泣いていたそうです。両親のマンションの崩れ方が近所の中では一番ひどかったと言うことで、近所の人たちの力で、出せる人は9時間ほどで助け出していただいたのですが、母は引き出された時に恥骨付近を骨折してしまい。しばらく動ける状態にありませんでした。崩れたマンションの横にあった、たいろ~の家の車に弟が携帯電話を置き忘れていたため、弟からすぐにたいろ~に連絡があり、すぐに行ったのですが、父の苦しそうな表情を母に見せることができず、最後のお別れも、たいろ~は母にさせられませんでした。おそらくあの表情を見たら、母は気が狂わんばかりに泣いたでしょう。一生、あの顔を忘れられず、夢に見ることだったでしょう。かわいそうでしたが、見れる状態ではないと諦めてもらったことで、父のよい表情を思い出にしてもらえたと思います。
たいろ~は父の兄弟が大阪に住んでいたので、連絡して、焼き場の手配、葬式の手配が神戸でできないことを伝え、大阪で手配してもらうようにお願いしました。大阪のおじさんは、足の悪い状態で、弟の奥さんと子供のためにと歩いて神戸まで来てくださいました。父の葬式の手配をしてもらい、母は骨折のため車椅子でした。弟は全身の筋肉痛が取れず、歩けはするものの、両手を合わせて拝むのでさえ苦痛に感じる状態で、父の世話、母の世話、来てくださった親族の世話などたいろ~一人でやることになり、母は申し訳ないとたいろ~に言ってました。そういえば、出棺の時こそ、泣いていましたが、意外と冷静でいてくれた気がします。移動中、たいろ~が車の中で休んでる時、騎乗に振舞って、たいろ~に気遣いをしてくれてました。ありがとうとも言ってました。トイレも一人で行けないため、おもらししても我慢していました。母は親族に励まされましたが、その時の母が何を考えてたのか。たいろ~にもわかりません。自分をかばってくれる人が誰もいなくなる。それがどれほど寂しいことか。今のたいろ~にはわかります。それでも泣き言を言わなかった。早く退院して働きたいと言ってました。1ヶ月くらいだったと思います。退院になった頃、仮設住宅などは近くに空きがなく、安い家賃の建物は、壊れてしまったか。もし建っていたとしても検査を受けるまでは入居できる状態でなく、母の勤め先から近い場所には、以前の3倍の家賃を払わなければ、住む場所を見つけられず、たいろ~と母の二人で頑張ってそれを支払いました。被災したので、いろいろなお金を頂いたのですが、仏壇と生活費ですぐにそれは無くなり、たいろ~は小さいマンションを購入して、そこで母と暮らすことを決めたのです。母は仏壇の扉をいつも開けたままで、御飯を炊いてはお供えし、お花は常に絶やさず、道端の花でいいから、何かを置いてあると状態を作っていました。たいろ~が結婚して、我が家の嫁ができたことがうれしかったのでしょう。事あるごとに母は妻にかまったのですが、これが彼女には面倒だった。狭いマンションで逃げ場もなく、ここにいたくないと言う態度と行動が露骨で、帰宅するなり、扉を勢いよく閉め、ドカドカと歩き、常に怒りを表してしました。喧嘩の原因は、ただ彼女は自分の収入を家に入れたくないと言ったことが、母には信じられず、何を考えてるのかとなったのです。彼女は何かのためには使うけど、自分の収入を当てにされたくないと言いました。たいろ~には理解できるけど、母には理解できず、エスカレートする一方。仕方なく彼女を実家に戻し、喧嘩は両成敗と思うので、たいろ~は別の仕事を見つけ、家に戻らない仕事を紹介してもらいました。これが母には辛かったようです。よく電話で「お母さんを捨てるのか。」と言ってました。身の回りに誰も肉親がいなくなるのは2回目。母にはとても堪えたようでした。とはいえ、たいろ~の仕事は身入りがよく。三菱重工の関係とあって、すぐに辞める気にもなれず、たいろ~は奥さんに月に1度は母親を訪ねて、様子を見てくださいとお願いしました。たいろ~も家には戻るけど、月に1度あるかないかだったので、奥さんにも頼んだのです。しかし、彼女は1度も来なかった。2年ほどして、たいろ~は彼女と離婚することにしたのですが、たいろ~はなかなか家に戻らなくなりました。でも弟も仕事を辞めていたので、弟に家にいてもらったので、母が寂しがることはなかったのです。しかし、自転車に乗れなくなり、横断歩道でも車に轢かれそうになり、動きが段々と鈍くなって来たのです。おそらく生きていてもいい事ないと感じたのではないでしょうか。元気が無くなっているようでした。医者に看てもらったのですが、昔に肺気腫や肺結核になった後遺症で、血液中の酸素濃度が通常の人間の生活レベルギリギリを保つ程度だったのです。生活するだけで常に呼吸困難な状態のため、仕事もしていられなくなったのです。しばらくは生活費を入れることで、自分の生活は何とかやってもらってたのですが、いよいよ障害者扱いとなってしまい。たいろ~は母の面倒を看るために家に戻ることにしました。弟は仕事を見つけていましたが、たいろ~のマンションに住んだまま。家に金を入れるわけでもないのですが、働いてるので、いい場所に寝てもらい。たいろ~は居間に寝ていました。弟が会社の金に手をつけてしまってクビになり、次の仕事を見つけないので、たいろ~と弟は喧嘩しました。弟は母親のことが嫌いだから、俺は母親の面倒を看ないと言いました。この時、弟は出て行って、連絡を一度もくれませんでした。たいろ~は許す気ないのですが、母親には大事な息子です。時折どうしてるのかな~。電話してみようか?と言い出しましたが、こっちから掛けちゃダメ。帰るところがると思うとまた悪いことしてしまうかも知れない。だからダメだよって、たいろ~は母親が弟に電話するのを許しませんでした。たいろ~は家を離れられなくなったので、母と生活保護を受け、住んでたマンションを引き払い、自己破産することで、生活保護を受けることにしました。その頃の母のケアマネさんはいつ逝かれてもおかしくない状態なのでとおっしゃってたそうです。そのことは引っ越した先のケアマネさんから、よく聴かされました。引っ越した時、ホントに危険だったのですが、たいろ~が面倒を看ること。そしてホームの人たち、新しい病院の先生、家に来てくれる看護師さんやヘルパーさんたちのおかげで、この人本当に病気?ってほどに元気で明るく暮らしてました。酸素濃度を計ると吸入してて95%くらいですから、苦しいはずなのですが、時折カニューラを外して動き回ってしまうほどでした。5分ほど歩けばコープさんがあり、そこまで行きたい。あそこまで行きたいと言いつつ、3度の腰椎の圧迫骨折などでそのリハビリのせいで、長距離を歩くことが許されず、治ったらあそこまで買い物に行くと行ってました。近くの公園まで車椅子に母を載せて散歩に出かけたりしました。母は遠くの島や海を眺めて、無言でいました。何を考えていたのか。今となってはわかりませんが、死期が近いことは感じていたのでしょう。でも、早く死にたいとも、もっと生きたいとも言いません。ただ自分が生きてれば、それだけでも息子に力になれる。それなら生きていよう。そんな感じでした。母がもう少し元気に暮らせるなら、保護から抜けて、普通に生活しようと話していたのです。骨折が治ってリハビリをしてる頃、よく二人で話したものです。たいろ~いつも母をからかってました。ラーメン食べたいと言うから、作ってやり、お箸を立てておこうか?などと言っては、泣くほど笑わせてました。
2014年9月、朝起きたら、母がベッドに倒れ込んでいました。寝る時用の酸素マスクはしていました。いつ記憶を失ったのか。股の間には網掛けの毛糸。みかんの皮。妙な姿勢。「お母さん。お母さん。大丈夫?」声を掛けると「うん」と返事があります。その日はホームに行く日でした。「どうするの?起きないの?」と聞くと「う~ん」と反応があります。変な感じではあるけど、珍しく酔ってしまったのかな?という感じでもあり、正しい姿勢で少し寝かせることにしました。あまりにもおかしいので、ケアマネさんや看護師さんに電話してみました。朝が早いので、どなたも繋がらない。少し経って、ケアマネさんが電話をくれました。声かけして、2度目の反応がないなら意識レベルの低下なので、すぐに救急車を呼んでくださいと言われ、救急搬送してもらいました。たいろ~はいよいよ今日なのか?と不安になりました。病院の先生は主治医ではないため、いろいろな検査をして翌日結果を教えてくれました。完全に脱水症状だと言われました。母の部屋は涼しい場所で汗の心配は少ないのですが、酒のせいかも知れません。母には何度も酒は控えてくれと頼んでいたのですが、母に酒を教えたのは父で、母は酒を飲んでることが供養とも言えたので、毎晩の晩酌は焼酎のお茶割り2杯程度は日課だったのです。それ以外にも水分は取らせていたのですが、後で考えたら、スイカなど果物ばかりを欲しがったり、体の訴えをたいろ~は気づきませんでした。意識を取り戻したとき、母はもうお酒を止めると言いました。さすがに死ぬかと思ったのでしょう。その言葉を口にした時も、おそらく体の異常を強く感じていたのでしょう。そして家に帰りたがってました。しかし、もうすぐ死にそうだと口にしませんでした。先生からもしかしたら2、3日後に亡くなるかも知れませんと聞いた時、たいろ~は処置の方法に不満があったので、処置の方法を変更してもらいました。静脈注射による血液検査をしなくては状態の変化がわからないのですが、これが痛いため、時間を置く必要があったのですが、母は積極的に検査してくれ、状況を知りたがってようでした。検査結果はよいものだったので、これでいい方向に向きそうだとたいろ~と母も安心してました。しかし母は医者の予想通りに逝ってしまいました。苦しまず、本当に眠るときにそのまま逝けました。本人は朝目覚めるつもりだったはずです。とても残念です。でも最後の数年、母は幸せだったのだろうと思います。もしかしたら自分は捨てられるかも知れないという不安から、私はここまで息子に愛されていたとわからせてもらい。本当にうれしくて、浮かれて、ケアマネさんたちに調子に乗っていろんなことを話して、よくたいろ~に怒られていました。それほど饒舌になるほど、最後は楽しかったのです。幸せだったのです。たいろ~にはそれがわかっています。
でも、ありがとう、お母さん。
そして、お疲れ様でした。
いっぱい苦しい思いをして、泣き言を言っても仕方ない。あるがままを受け入れて、自分らしく生きていくことをたいろ~はあなたから学びました。
どうせ人間は生きるしかない。人生は快適な場所とは言えないかもしれない。地上は楽園ではないかもしれない。しかし、どれほど苦しい状況下にあっても、家族が思い合っていれば、それで十分。自分のことを一人でも気にかけてくれるなら、それで十分なんだよってことを教えられました。
ありがとうございました。
