プラトン哲学と国家の独立②・・伊藤貫【時事所感152】
この話はたいへん重要性のあるものです。
人間がものを考えるときに必要な判断基準、価値判断、価値基準、価値基準思考力を持ち合わせておかないと、
論理的に一貫性のある整合性ある明確な思考は成り立ちません。
お話は伊藤貫氏です。
(以下、伊藤貫氏)
最近の過去約200~250年、欧米人の価値観や価値基準が変化してきたか、
それによって日本人はどのように影響を受けてきたか、
もっとはっきり申し上げると、
そういう価値基準や価値判断思考力が衰退してきた欧米人たちに日本人は随分弄ばれてきたところがあるんです。
それは勿論のこと19世紀中頃まで日本人は外国人と直接議論する場に立たされなかったわけで、
国を開けた途端に、価値観、価値基準や価値判断力が乱れて衰退してきた欧米人たちと日本人は付き合わなければならなくなった。
これは過去約250年における「日本の悲劇」だと思います。
それまでの欧米人たちというのは、そう簡単にポンポンと意見を変えたりころころ価値基準を変えたりする人達ではなかったんたです。
ところがここ最近約200~250年、欧米人たちがその場その場で自分達にとって都合良い価値基準を言い出して、
それをアグレッシブに非白人諸国に押し付けてきて、
それを繰り返しているんです。
そういう欧米諸国、西欧文明に日本人は押しまくられて、
それに日本人は対応しようとして、懸命にキャッチアップして、時には猿真似してみせて、失敗して。
これは現在もそうなんです。
例えば、現在の日本政府がそうなんですが、
ウクライナ国内で不必要なクーデターを起こさせて、
ウクライナを米国や欧州の准軍事同盟国にして、
これに堪り兼ねたロシアがファイトバックせざるを得ない状態に追い込んで、
堪り兼ねたロシアがウクライナ東部に侵攻していって、
これを理由にして長期の対ロシア戦争を起こして戦争しているんです。
これでロシアという国、ロシア文明を徹底的に打っ叩いて壊して潰そうと歴史的にもかなりグロテスクな行為がなされているんです。
これを日本政府、それにマスコミ、日本のマスコミは略全部ですね、拍手喝采して。
それに引きずられた議論しかしていませんね。
最近約150年欧米諸国のやることにくっ付いていった、
そういう西欧・欧米に鼻面を引っ張られて振り回されてきた「日本の悲劇」がいま現在もずっと繰り返さているんです。
こういうことも含めて、哲学史や政治思想史の点から観てどういうふうになるかを分析したお話します。
話の前半部では過去約2500年の間に哲学史や政治思想史において哲学や政治思想がどのように変わってきたのかをお話します。
話の後半部はプラトンの国家思想を説明して、
ソクラテスやプラトンによる
「国家思想の独立」
と
「国防政策の独立」
というのが如何に大切なものであり重要であるか、
ということについて御説明します。
前半は哲学や政治思想史、
後半はプラトンの解説になります。
先ずは、私がいつも言っていることなんですが、
物を考えるには3つの段階があります。
この3つの段階を踏まえて考えないと、
整合性のとれた一貫した明確で安定した思考が成り立ちません。
この思考の3つ、3段階の思考レベルというのは、
先ず最上段に哲学若しくは宗教レベル、「フィロソフィカル・レベル」があります。
次にその下二つ目の段階に、政治学、経済学、国際政治学、政治思想史、軍事学とかあって、
そのなかに経済学においてはケインズ学派、マルクス学派とか、オーストリア学派とか色々あるでしょ。
所謂学派ですね。
こういう学派、パラダイム・レベルが次の段階にあって、
どのパラダイムを自分達は採用、使用するのかによって、
議論の中身は変わってくるわけです。
思考レベルの二つ目の段階がこの「パラダイム・レベル」です。
次の3つ目の段階、思考レベルの最下段には、
誰にでも分かり易い「ポリシー・レベル」の議論ですね。
目の前に起きたある問題について、どの政策、方法を用いて対処すれば、その問題解決を実現するために可能性が高いか、効率的か、合理的か、コストパフォーマンスが高いか、とか・・。
目の前の問題に対処するうえでどの方法を用いれば最も成功するかという「ポリシー・レベル」の議論です。
『思考の3段階レベル』
・フィロソフィカル・レベル(哲学的、宗教的思考)
↓
・パラダイム・レベル(パラダイム、学派的思考)
↓
・ポリシー・レベル(政策、対処方法的思考)
僕はこの思考3段階レベルを「3つのP」と表現しているんです。
日本が現在一番困っているのが、実はこの思考の3段階レベルのなかで最上段にある、
「哲学的、宗教レベル」 「フィロソフィカル・レベル」
ここの考え方、思考レベルをどうするのか、ということなんです。
日本人はこの思考レベルが実は最も苦手なんです。
(続)