「馬鹿保守」と言ってはいけない【時事所感137】 | 多事争論(時事所感)

「馬鹿保守」と言ってはいけない【時事所感137】



故西部邁氏と中野剛志氏の話を抜粋して今回は御紹介します。


中野剛志氏(以下中野氏)

「私は保守になることを目指していて、私にとっての保守というのは、『経験を積んだ大人の智恵』というイメージ。私はまだ若いので保守見習いという感じ。」


「人間も社会もいろいろな事が非常に沢山な事が相当複雑に絡み合っている。

それにたいして人間の能力には限界があって、理性にも限界がある。

知識や経験を積んでいって、いろいろな事を試行錯誤していって、そうして初めて判ることがある。もっと大人になって後から判ってくることがある。それを身につけたいと思う。

簡単に表現するとそれが私にとっての保守のイメージです。」


「保守の歴史を遡ると、保守派の立派な先人たちは日本も海外においても卓越している。

彼らの著書を一回読んだだけでは判らない、ある程度の年齢になってから再び読んでみてやっと判ることが多い。

頭が良くて、経験を積み重ねていて、表現力豊かで、超一流の人達なんです。」





「これを保守としてみると、現在の日本をみれば『保守』という人が多過ぎる。やたらめったら保守といわれる人や自称保守が沢山出てきても困る(笑)」


「「靖国参拝」だから保守とか、「日教組と対立」だから保守とか。それは本来の保守ではなくて、私からすれば馬鹿なんです。単純な理屈だけを繰り返すマッチョ指向な馬鹿なんです。

本来の保守になりたいと志している私からすると納得いかない。」


「今の日本を見ているといい歳したオッサンが若作りして「~を改革」とか言っているのは滑稽なんです。」


(西部邁氏)

「僕は中野君のお父さんの世代にあたるから少し上から偉そうに言わせてもらえるなら、

馬鹿保守って言ったらいけないと思う。」





「理由はこうなんです。理屈で言うと、「慣習」という既存の制度がある。これを近代社会が戦後日本人が次々と壊して破壊しまくってきた。

そうした後にヤンガーゼネレーション、より若い世代は頼るべき規範的価値基準が頼り無い状態になる。

これを頼りにすればなんとかなるのではないか、というものが破壊が進むにつれて次第に頼りなくなってくる。

「天皇陛下万歳」と言えば何かが戻るのではないか。

「靖国参拝」をすれば何か確かなものに近付けるのではないか。

これらは一見単なる感情論的なものにみえる。

単なる左翼の裏返しにみえる。

彼らを弁護するつもりはない、単なる馬鹿なのかもしれない。

保守派側から云わせれば、そういう彼らに対してある種の説得を仕掛けるということなんです。

僕は数年に一度の靖国参拝なのを正直に暴露しますけど。

靖国参拝を継続しているある青年がいたとします。

「青年よ、君が靖国参拝をする気持ちはよく判る。ところで青年よ、靖国参拝をする本当の意味はどういうものか?

靖国に行くことによって触れたり知ることが出来る国家の歴史や戦争の歴史、英霊の志・・等そうした事を理解 するのが重要なんだということを言論の場所で語り掛ける。 


僕なんかは老いぼれでこの先短いんだから、

中野君ら若い世代がこういうことをもうちょっと頑張って欲しい。」