野村秀介氏の自決【時事所感85】 | 多事争論(時事所感)

野村秀介氏の自決【時事所感85】



私がジャーナリズムの世界を志していた学生時代、

学校へ行くと、いつもとは雰囲気が違うためクラスメイトに尋ねると、



「え?知らないの、野村君のお父さんのこと?」


「昨日の朝日新聞立て籠もり、

野村君のお父さん、野村秀介さんだよ」




「・・・え?」





クラスメイトが野村秀介氏の御子息だとは知りませんでした。






「週刊朝日」に掲載された山藤章二氏のイラストに抗議、謝罪を求め、朝日新聞東京本社を訪れ、

社長と話し合いの場を持つも、

野村氏は皇居方向へ御辞儀をし、「皇尊弥栄」を3度繰り返し発した直後、持参していた拳銃2丁を両手に自らの両脇腹に当てて発砲、自決したのです。




野村君については、

時々は学校を休んでいたように思うけれど真面目に授業を受けている学生で、

個人的印象としては良い印象で、

あまりお喋りではない物静かな感じ、

若い年齢にしては大人びた落ち着いた雰囲気の学生でした。



事件前日からだったでしょうか、1~2週間程は彼の姿は見えませんでした。



直近に発売された各週刊誌の表紙は、

生前の野村秀介氏、葬儀で遺影を抱えた野村君の姿ばかりだったのを覚えています。


友人からの伝え聞きでは、

この事件の時、野村君も父・野村秋介氏と共に朝日新聞社へ行っていたようでした。



この時に頭に浮かんだ記憶というのは、

学校で講師をされていた一水会の鈴木邦夫さんと野村君は、以前から長い時間にわたって話をしていて、

あの鈴木邦夫さんが真剣な面持ちで真摯に話込まれていたのを何度か目にしたことがあったことです。


この出来事で納得しました。


野村秀介氏の御子息だったと。







暫くしてから野村君が教室に姿をみせた時、

何一つかける言葉がありませんでした。

 

クラスの幾人かは話をしていましたが、

事の衝撃さ故に私は何一つかける言葉は持ち合わせていませんでした。





当時の私はジャーナリズムの世界で仕事することに気概を感じ、

ジャーナリズム=権力のチェック機構、反権力、

反体制的思想が強く、右翼や国体、国粋というものに抵抗があり、

何かしら危険な思想の扉を開いてしまうのではないかと遠ざけてしまっていたように思います。


尚更掛け得る言葉はありませんでした。



因みに、この出来事の後、この新聞社で仕事することになり、

事件があった階へは心情的なこともあり、

行くことはありませんでした。





現在にして思えば、

この出来事に関係なく、色々な話をしておけばよかった、聞いてみたかったと。

今更ながら思っています。







以前にも【多事争論・時事所感70】「国家存続のための3要素」を述べましたが、

今回の話とも関連した話をしたいと思っています。




※野村秀介氏・・・戦後の新右翼、民族派思想を代表する論客、思想家、活動家。

1993年10月20日に朝日新聞東京本社にて自決。

「さらば群青:回想は逆光の中にあり」 等著書多数