Back to the 2014.3.27 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、稿の谷間になりましたので、Back to the 2014.3.27をお送りします。

 

Backして取り上げますのは

 

安倍政権を支える経済論

 

というタイトルでSOJ氏の稿です。2日に分割されていたものを一部編集してお送りいたします。

 


人気ブログランキングへ

 


本日は、「安倍政権を支える経済論」についてをお伝えします。

安倍政権を支える経済論は、実は以下のものだ。
「GDPを成長させるには、潜在GDPを引き上げることが最も重要だ。それが実現でき、なお、実体経済において上手くいかないとしたら、それは金融政策に問題がある。」


これをベースにしている政策を「新古典派的な政策である」と定義しよう。

これが新古典派の誰が、どの本で、書いているのかというのは非経済学徒には無意味で、それは経済学者に任せれば良い。経済学は、非経済学徒にとっては、何ら意味をもたないものだ。これは、我々は水の供給を受けることに対し関心を持つが、水のろ過技術や配水システムに対して、その知識を得ることに大して関心を持たないことと同じことだ。

重要なのは、安倍政権がこの理論で動いているか否かである。経済学者での認識で、「新古典派の政策」が如何なるものか知らないが、一般的に新古典派は供給側を重視し、ケインジアンは需要を重視するという認識であり、「新古典派的な政策」とは供給側(生産)を重視した政策を意味するなら、十分にそれで足りる。この「一般的に新古典派は供給側を重視し、ケインジアンは需要を重視するという認識」が、誤りであるというなら、それは、それについては質問を受け付けるべきだが。

潜在GDPや、潜在成長率は、供給サイドの問題だけで、需要サイドの問題は関係ない。供給可能となる生産力を増強するためには、労働力を増やせばいい(または資本投入を増やす)ので、その観点からは、外国人の移民や外国人労働者の増強、扶養控除の縮小というのが、潜在GDPの上昇に繋がる。また、法人税減税、所得税に上限設定は、需要の拡大ではなく、逆に需要の縮小に繋がるものだ。(減税分が、そのままなら良いが、基本的に公共事業の縮小や増税といった形で回収されてしまうため。所得が低い人ほど、消費性向が高く、法人税が課税されない「儲かっていない」企業ほど売上が他社に配分されるため。)

道州制が新古典派的な政策かと言われると、上記の定義には含まれていると感じにくいかもしれないが、広く規制緩和が潜在GDPの成長を目的としたものであるなら、含まれ得るのだ。雇用の流動性強化は、労働生産性の向上を目的とするものであるため、潜在GDPを引き上げる効果が期待できる。そして、GDPと潜在GDPとの差であるデフレギャップの拡大に対しては金融緩和でそれを埋めるというストーリーが安倍内閣で存在しており、それで全てが上手くいくと考えているのだろう。そうでなければ、安倍政権の政策は説明できない。

しかし、この安倍政権のストーリーは、短期的には成立し得るが、長期的な持続というのは難しい。GDPの安定的な成長には需要の拡大という面を考えなければ、中国のようなことになりかねない。中国では逆に需要のみに視点が置かれ、供給の方に政策的な力点が置かれないために、毎年大幅なインフレになっているという意味では逆なのだが、中国と同じように片側(供給のみ)に力点が置かれるといびつな構造が生まれてしまうのだ。

金融緩和のさらなる拡大は、投機的な動きを加速させ、モラルハザードの原因になり得るし、安定的な経営を行うものが競争力を失い、不利になる。

他にも、扶養控除の縮小は、専業主婦が仕事を探す動きに繋がるが、この専業主婦には優秀な人材が多いため、本来仕事が必要である人との競争に打ち勝ってしまい、仕事がどうしても必要であった人の所得を奪い取る。

このことで、社会を不安定にさせるという悪影響が生じかねないし、社会保障費用の増加に繋がる。この場合に、全体的に日本の競争力を奪うことになりかねず、長期的には生産性が落ち込み、金融緩和では需要が創出できなくなるのだ。

 

「GDPを成長させるには、潜在GDPを引き上げることが最も重要だ。それが実現でき、なお、実体経済において上手くいかないとしたら、それは金融政策に問題がある。」

この理論を背景にして、潜在GDPの拡大を第一に考えると、財政出動という選択肢は必然的に優先順位が低くなる。公共財への投資を行ったことにより生産性が仮に上がったとしても、それは一般的に使われている指標には反映されない。もしも日本の総資本とGDPを比較した日本国の資本生産性という指数は、計算できないことはないのだろうが、算出されているのを見たことがない。

以前、藤井氏と飯田氏で論争をしていましたが、本質的には、公共投資が生産を産み出す資本としての価値があるのか否か、そして、その価値があるとしたなら、どのような算出が妥当なのか、かかった費用をそのまま資産として計上するのはおかしいのではないかという論争であった。

この論争は、飯田氏が資本生産性からみた潜在GDPの成長に繋がるか否かという観点から公共投資を見ていたことを示しており、需要創出としての公共事業の役割を、飯田氏は、重要視していないという背景があるために、論点が、公共財の生産性についてが焦点となったのだ。

潜在GDPと潜在成長率はもちろん大事である。この潜在GDPの成長なき、GDP成長はまぎれもなくバブルであるが、公共事業の需要創出を考えないと、公共事業の過小評価ということになる。

19世紀以前において、需要の不足というのはあまり想定する必要はなかった。これは、飢餓の恐れがある世界で、どのようにして民衆を食べさせ、民衆の不満を抑えるかということが政治の要であり、供給を如何に確保するかこそが、国家の役割だったからだ。また、民衆においては資産と呼べるものを購入し、消費するということがほとんどなかった。このため、基本的に供給側が上位にあり、需要側が弱い立場にあった。

このような社会が変わってきたのは20世紀初頭であり、庶民に高級材や消耗資産を売ることで世界のGDPは大幅に成長した。これはフォードなどが成長する「フォーディズム」でもあり、ケインズが新しい経済理論として「需要に大きく焦点をあてた」のは時代の要請であった。

 

このように時代的な背景が変わってくる中で、需要に視点を移すのは当然のことで、20世紀以前の供給を重視する日本の経済戦略は中国の供給を重視する経済戦略に後れを取っているという現実を直視する必要がある。

金融緩和により、貸出金利を落とし、貸出を増加するという手法は既に限界に来ている。

 

貸出金利は既に最低レベルであり、これ以上の貸出をするには銀行が貸出リスクを無視するような政策を打たなければ効果がない。然しながら、この貸出リスクを必要以上に過小評価した貸出は、資金を借りて、ダメなら会社を潰せば良いという考えが蔓延するならモラルハザードの原因になる。

無論、挑戦者が挑戦しやすい環境は良いことではある。ただ、銀行から資金を調達し、ダンピング的な価格で販売することで他の安定的に、良心的な持続可能な経営者を潰してたなら、どうなるか?

 

冒険をしない企業が淘汰されて100年も200年も地元とWINWINの関係を築いていた企業が潰れてしまって良いのか?


リスクを取って挑戦しなかった老舗の企業が悪いと安倍氏は考えるのかもしれんが、それは日本的な感覚ではない。安倍政権が、供給側を重視した施策、つまりは「新古典派的政策」を行っていることは間違いなく、この弊害はあまりに大きい。

 

「需要を重視した政策を改めて、強く訴えたい。」

 

こう思われた方は、発信力強化の為、↓クリックお願い致します!

人気ブログランキングへ