“アフガニスタン、ケニア、コンゴ・・・世界の紛争地域を取材で飛び回る報道写真家のレベッカは、常に死と隣り合わせになりながらも真実を伝えるためにシャッターを切っていた。
そんな彼女が仕事に打ち込めるのはアイルランドで暮らす理解ある夫と二人の娘のおかげ。日常生活を一緒に送れなくても、すべて上手くいっていると思っていた。
だが、あるとき取材のために危うく命を落としかけたレベッカは家族のもとへ帰国する。その時初めて、離れ離れの生活に疲れ果てた夫、思春期の長女の本当の気持ちを知る。報道写真家としての使命を選ぶのか、かけがえのない愛する家族との生活を選ぶのか――。”
(アマゾンの本作解説より転載)
(以下、ネタバレあり)
全編を通して、同じようなテーマを扱うハリウッド映画よりも「大人な」描写
(:ことさらスプラッタ🩸を強調しないとか(映っても一瞬))
が印象に残ります。
ジュリエット・ビノシュ
演じる戦場ジャーナリストレベッカの次女が、請うた猫(候補二匹)のうち、一匹を選べと言われて漏らした言葉、
「両方ほしかったのに。」
これ管理人は、エリック・ポッペ監督が
埋め込んだメタファー(隠喩)だと思うんですね。
レベッカが命を危険に晒してまで行う戦場ジャーナリストという仕事と、家庭の両立。
(「両方」ほしい)
戦場ジャーナリストとしての使命感に駆られ
危険な現場での「仕事」を優先してしまい、
間近で母親を喪うかもしれない恐怖を
ティーンエイジャーの長女ステフに味わわせてしまったレベッカ。
許しを請うレベッカにステフが浴びせる、彼女の一眼レフ
による“シャッター音のフルオート銃撃”には胸を締め付けられました。
(管理人のは
機動力💨重視でマイクロフォーサーズ)
家庭崩壊の危機を迎えるレベッカの一家ですが、
「世界には私以上に、私の母を必要としている(世界から見捨てられた)人たちが居る。」
そのステフの思いに動かされたのでしょう。
レベッカの仕事を、「死臭がする」と否定的だった夫マーカスも、肯定までは行かないものの、否定はせずに彼女を送り出すようになります。
管理人だって戦争や紛争が無くなってほしいとは思いますし、
拙くもささやかながら、具体的な行動も興しています。
が、自身の日々の生活を犠牲にしてまでと言われれば、
管理人は全くそんなレベルではない。
誰かがやらねばならないその「仕事」を、
運命に“割り振られた”者は、決して多くはない。
理想的には、レベッカのように心配をさせる家族を持つ人間がやるべきことではないんでしょうが、
“担当者”がそうとは限らない。
管理人は、世のため人のためになる行動の“担当者”が、必ずしも聖人君子・人格者である必要はないと思っています。
(故スティーブ・ジョブズだって、ご存知のとおり相当な偏屈者)
動機が「生き甲斐」だろうが「自己顕示欲」だろうが何だろうが、、
ネットの匿名性に隠れ、“担当者”の批判・非難・誹謗中傷に終始する小者(口だけ番長)とは違い、
“実際に行動”し、世界をほんの少しでもよい方向に動かそうとしたり、
誰かを(物理的にのみならず精神的な面でも)救おうとか勇気を与えようとしたりする者に、
ただの傍観者がどの口を挟めるのか。
『批判する人に価値はない。
観客席から行動した人間を指してどうすれば良かったとか、
どんな風につまづき失敗したのかと指摘するだけの人に価値はない。
埃と血と汗にまみれて努力した競技場に立つ人に名誉は与えられるのだ。』
(セオドア・ルーズベルト:政治家、第26代アメリカ合衆国大統領)
「黙れ小僧小者!」
(モロさん降臨)
自らの命を危険に晒したレベッカの「仕事」は、
少なくとも難民キャンプの治安を、
僅かではあるかもしれませんが、
一時的ではあるかもしれませんが向上させました
今日も世界のどこかで自らの命を危険に晒し、
事実を伝えようとしている戦場ジャーナリストたちと、
彼らに理解を示し送り出してくれている家族の人たちに、どうか幸あれ。
(関連記事)
エリック・ポッペ監督作品と言えば、これも
百年先とは言わないまでも、いつか人の幼い意識がもっと進化し、、
戦争や紛争という行為を辞められる
(:戦争以上に合理的で実効的な非暴力手段を創造する。
転じて、戦場ジャーナリストという仕事が必要とされなくなる)
日が来ることへの管理人なりの祈りとして、ここに小さな種(レビュー)をひとつぶ蒔いておきます。
(種が芽吹き🌱生い茂る🌳栄誉を、あなたのに。)
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(最終更新:2022.3.18)