早いもので投稿📧がもう12年も前になってしまった、
あれから12年経っても
(そしてこれから先も)
当ブログでいちばん読んでもらいたい記事
(そして当ブログでいちばん人気がない記事)
早いもので投稿📧からもう12年も経ってしまった、
当ブログ管理人ぼんおうの“旅路”を記した記事を再投稿♻📧
(2023年のいまとは違い絵文字やギャグを
1ミリも使用していないのが反って新鮮🍊)
再投稿♻📧にあたり記事中の各年数表記は、
12年前の初投稿時📧の数字にに12足してあります。
(伏字●●を用いた固有名詞も一部、2023年版にアプデ)
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当記事は人によっては「後戻り」できない、
覚悟のある方だけ、この先を読み進めてください。
覚悟のない方は、ここでこのページを閉じてください。
当記事は13年前にアップした、
「終戦の日」の続きにあたります。
(同記事再録:ここから ▼)
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当ブログは扱うネタの性格から、サバゲーマーとおぼしき方のアクセスも少なくないわけですが、
終戦記念日(戦没者を追悼し、平和を祈念する日)にサバイバルゲームに興じる。
風向きが変われば関係者/愛好者全員に、ツケが回ってくることにもなりかねません。
「サバイバルゲーム = 戦争賛美・暴力肯定」は、間違いなく、たしかに、どうしようもなく誤解です。
しかし、右へ倣えが国民性の日本人。
サバゲーを肯定も否定もしない・よく知らない・関心がない6割(?)のサイレントマジョリティも、いざ“事が起こり”長引けば、どうなるか分かったものではありません。
そういうデリケートな時節にすら興じるのは、
『レイプ被害者の前で強姦AVを鑑賞してるようなもの。』
と受け取られることがあったとしても、無理からぬのではないでしょうか。
(『 』内は実際に管理人の親族(上の動画の人たちのように、特にサバゲーを嫌っていたとかではない)が、終戦の日にサバゲーが行われているのを知って漏らしたとおりを書いています。)
『人間って、気が緩んでいないと自分では思っていても、気が緩んでいるものだと思う。
引き締めるには、くどいほど自問自答するしかない。』
(本田圭佑:プロサッカー選手、元日本代表)
一言でいえば「損して得とれ」。
個人的には、反戦・嫌戦ムードが最も高まるお盆前後一週間ずつと年末一週間程度の、計三週間くらいは自重したほうが好いと思っています。
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(同記事再録:ここまで▲ )
「サバイバルゲーム = 戦争賛美・暴力肯定」は、間違いなく、たしかに、どうしようもなく誤解です。
が、「火のない所に煙は立たない」。 これもまた確かでしょう。
我が身を振り返って余計なお節介を焼きますが、そんな偏見(偏ったものの見方)を助長してしまっている大きな要因のひとつ、コスプレ派および準じるゲーマーの方にも、自ら問いかけてみてほしいことがあります。
「私の“この”振る舞いは、
どこかで身につけてしまった劣等感・無力感から、
“ヒーローの皮”を被って目を背けていたいが故なのか?
それとも本当に、憧れの戦士/存在に対しての
リスペクトの意味を込めてのことなのか?」
(上記の「私」は、これを自分に問いかけた27年ほど前の管理人)
(コスプレ派だったかつての当ブログ管理人ぼんおう)
(MGC M92Fは塗装でシミュニッションキット換装状態を再現)
コスプレ派だったかつての当ブログ管理人ぼんおうは、いまにして思えば前者でした。
つまり偶像崇拝です。
それを自覚できてからは、自分以外の何者かになり切らずには居られない
(:ありのままの自分を認めてあげられて居ない/自分への愛情の向け方が歪んでいる)
ことが、ひどく悲しいことだと思えるようになりました。
後者であったにせよ、戦争/紛争被害者と、その近しい人への慮りに欠ける。
(実際そんなつもりは微塵もなくとも、はた目にはそのように映っても無理はない。)
これは、あなたが憧れてやまない戦士の在り様とは逆なのではありません、か?
“仮装は敬意の証しとする論法で、この種の論理はコスプレ天国(?)の日本でもよく耳にする。
しかし悪意がなければ差別にならないわけではない。「表現の自由」が相手の憤激を誘う※こともあるのは、仏テロの先駆けとなった今年1月の「シャルリー・エブド」事件を見れば分かる。”
出典:読売新聞2015年11月26日朝刊 「デザイン季評」
(※12年前に触れた“ツケが回ってくる”に相当)
「“真似”と“差別”は違う!そんなつもりは無いんだ!」
そうかもしれませんが、分かり易いよう極端な例えをします。
もし(「もし」ですよ)、
似たような恰好をした人が似たようなバイクを転がしているのを見たとしたら、
「一人で」「昼間の郊外で」「静かに」「法定速度を守って」「安全運転」していたとしても、
あなたはかなりの確率で、自動的に族認定してしまうでしょう。
(もしそうでなかったとしても。)
善し悪しではなく“つもり”以前の話として、人間というのは、そんないい加減な認識能力がデフォルトで実装されている。
何のことはない、偏ったものの見方をしているのは自分たちもそうだったんです。
古今東西言われ尽くしていることですが、人間とは
見た目で勝手に判断する
生き物です。
(だからコスプレ派の方が、自分たちを批判してくる人に「正しい間違ってる」に依った議論反論を試みても高確率で無駄)
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実は先の問いの後半(リスペクト表現としてのコスプレ)も、問いの前半と根っこは同じ、当人が無意識下でもっともらしく捏造したごまかしです。
(考えてもみてください。もしあなたの前に、
「あなたは素晴らしい!尊敬しています!」という人が、
頭のてっぺんから足の先まで、(普段の:ありのままの)あなたと全く同じ格好をして現れ、
敬意の証だと、(普段の:ありのままの)あなたの一挙手一投足を徹底的に真似られたら、
あなたはどう感じます、か?)
意識の上では「リスペクトの顕れなんだ。」と本気で思い込んでいる。
勢いはあるのだけれど、実は自分でコントロールできておらず、振り回されている。
本当は心の奥底は空疎なのだけれど、(それを視ずに済むから)うわべは「楽しい!!」と思ってしまう。
一字一句たりとも間違えてほしくない問いを、いま一度発します。
「私は楽しさを、充実を“演じて”いないだろうか?」
管理人のコスプレはご覧のとおりなんちゃってSWATでしたが、病が嵩じてこの後SASにかぶれ、当時はかなりいい値段がした(今も?)実物英軍装備のコンプリートに走りました。
お陰でといいますか、管理人は資金繰りがショートしたのがきっかけで、
「こうまで(コスプレを)したい理由は何なんだ?」
というクエスチョンが生じ、己と向き合いました。
深く・・・深く・・・・・
いまの管理人は一寸の躊躇もなく、はっきりと認めます。
「トクベツな誰か」になり切りたかったのは、「トクベツじゃない自分」を嫌っていたからだと。
(これは心の奥底(無意識)でどう感じているかの話なので、たとえば当人が強面(こわもて)とかマッチョとか、あるいは一般的に見て充分に容姿端麗とか見目麗しくとも、当て嵌まらないとは限りません。)
古今東西言われ尽くしていることですが、人間は自分のことが見えない生き物です。
(「もしかしたら、私は自分が見えていないのではないか?」と疑問を抱かない限りは)
(コスプレとは別の点でも「見えていなかった」かつての管理人。)
『羨望が無知であり、模倣が自殺であり、良かれ悪しかれ与えられた自分自身を
そのまま受け容れるべきであるということを、誰しもが理解した時が、すべての人の内的成長の時である。』
(ラルフ・ワルド・エマーソン:思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト)
管理人はもう、自分以外の何者かになり切りたいとは思いません。
弱さを強さと勘違いし続けていた、かっこ悪さをかっこよさと思い込み続けていた「旅」は、終わりました。
(風呂上がりで失礼)
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見たくないことから目を背け、束の間“ハジけた”としても、それは日常に戻れば泡の如く消えてしまいます。
心の奥に在るそれをごまかすのに
“うわべの楽しさ”を追い求めても、結局は自己否定が前提にあるので、ずっと苦しいままです。
ひた隠しに隠してきた自分の姿を直視するのは、無自覚に、であればあったほど、半端ない痛みに見舞われます。
が、ここでまたごまかしに戻らず苦しみまくれば、
いずれ自我があまりの痛みに降参し、あとは徐々に楽になっていきます。
(こちらの痛みは半端ないぶん、ずっと、ではなく一時(いっとき)のことです。)
もちろん「どちらを取る」かはあなたの自由です。管理人が「命令」して決めさせることではありません。
(この記事はコスプレ派の人を責めているわけではなく、心/無意識のメカニズムを話しているだけです。)
が、最後にもう一度だけ問いかけて(できれば声に出して読んで)みてください。
「いま居る“ここ”は本当に、私に相応しい場所だろうか?」
余計なお節介であることは百も承知ですが、感じきる価値のある
半端ない痛みにダイブして、いまはよかったと思っている管理人としては、なるべくなら人に、なるべくなら肩書きに、なるべくなら権威にすがらない・拝み奉らないほうを勧めたい。
陸●特●作●群、
●リッド●ネーク、
●イビー●ールズ、
●゛ョン●ィック、
P●C●ペレーター、
●曹、●尉、●佐etc...
真に尊敬であればけっこうなこと(コスプレの必要はなく、機会があればその気持ち・感謝を伝えるだけで十分)ですが、“崇拝”はお勧めできません。
それでは、いつまで経っても自分を認めることなどできないから。
“権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。”
(出典:ダイヤモンド社 嫌われる勇気 岸見一郎/古賀史健共著)
『経験はそれだけでは経験にならない。
他のもう一つの経験によって乗り越えられたとき、初めて一つの経験になる。』
(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ:詩人、劇作家、小説家、科学者、政治家、法律家)
『弱点を恥ずかしいと感じないということと、弱点があることを否定することとは違う。
自分の弱点を自分で認めることが必要なのである。自分の自分に隠してはいけない。』
『自分の本当の姿に目を背けることによって、私たちは一時的には救われる。
しかし長期的に見れば、自分で自分を信用できなくしているのである。
そのような態度は、最終的には自分自身を破壊してしまうのである。』
(加藤諦三:著述家、社会心理学者、早稲田大学名誉教授)
“僕は逃げられないし、逃げるべきではないのだ。
それが僕の得た結論だった。
たとえどこに行ったところで、それは必ず僕を追いかけてくるだろう。
どこまでも。”
(出典:ねじまき鳥クロニクル 村上春樹著)
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誤解の無いように記しておきますが、管理人はコスプレにさよならを言えて久しい今でも、相変わらず弱いままです。
ただそれまでと違うのは、弱いありのままの自分を認め、OKを出していることです。
ありのままの自分と向き合い、無条件で受け容れるのは、“トクベツな誰か”に依っていては決してできません。自分にしか出来ません。
あなたは他の誰にも取って代われない、この世で唯一無二の存在という点において、
憧れの誰かと全く同じだけの価値がある。
あなたもまた、
この世界に絶対欠くことのできないピースのひとつである。
この事実を認められます、か?
どんなあなたであっても存在していなかったら、
世界はいまとは違った姿になってしまうんですよ。
(あなたは世界と等価)
『猫はどんなに小さくても最高傑作である。』
(レオナルド・ダ・ヴィンチ:芸術家・発明家)
『満点は星空だけでいい。』
(明石家さんま:お笑いタレント、司会者、ラジオパーソナリティー)
『輝かなくとも生きていける。生きていい。それだけは確かである。』
(山田ルイ53世:お笑い芸人、文筆家)
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くどいですがこの記事はコスプレ派の方を責めているわけではなく、心/無意識のメカニズムを話しているだけです。
(管理人はコスプレ派(:かつての管理人)の敵ではなく、考え方の違う味方)
恐らくあなたは当記事冒頭の、
>覚悟のある方だけ、この先を読み進めてください。
>覚悟のない方は、ここでこのページを閉じてください。
警告を無視して、ここまで読み進めてきたのではないでしょうか。
最後に「ネタばらし」すると、
ここまで歯に衣着せず核心を突いてきたのは、
実はあなたは「無意識下」で、痛みと向き合う覚悟ができていた。
(いま居る“場所”は、本当は自分に相応しくないと、心の奥底では知っている。)
本気で心の傷を癒そうとする決意をしていた。
(コスプレという“痛み止め/対処療法”で
ごまかさず、そろそろこの辺りで“根治”させようと、心の深いところで既に決めている。)
だからこそあなたは、ここまで読み進めてきた。
(読まない・読み続けないという選択もできたのに。)
いきなり“鎧”から
“マッパ”はハードルが高いでしょう。
(記事一本に凝縮してますが、管理人も“マッパ化”に一年近くかかってます。)
でも、時間はかかると思いますが、
あなたは大丈夫だと知っている(信頼している)から。
(管理人はコスプレ派の敵ではなく、考え方の違う味方)
このメッセージの意図が正しく伝わることを祈っています。
リンク追加(随時更新中)
理想の存在に「近づこう」と思えば思うほど、そこから「遠のいていく」。なぜなら、その理想の存在は「近づこう」なんてしないから。その行為そのものが、「遠のいていく」ということだから。自分が自分を投影する憧れの誰かは、自分に姿を投影したりしない。その行為そのものが「遠のく」ことなのだ。
— プロ奢ラレヤー🍣ぷろおご (@taichinakaj) December 22, 2020
「すごい自分になること」よりも、「すごくない自分を諦めること」の方がずっと確実で、ずっと安定的で、ずっとイケてると思っている。
— プロ奢ラレヤー🍣ぷろおご (@taichinakaj) June 26, 2021
「自己肯定感が低いんです」と言う人は、じつは自己肯定感が低いのではなく、自己肯定への「理解度」が低い。自己肯定とは「わたしはすごい!」ではなく、「わたしはこんな感じだが?なにか?」と思える状態だからね。必要以上に、実態以上に自分を持ち上げないといけないのは、むしろ究極の自己否定。
— プロ奢ラレヤー🍣 (@taichinakaj) January 11, 2022