昨日からの続きになるのかもしれません。
いずれにせよ、ただの思い付きですから、垂れ流しをお詫びします。

修行をしない坊さんである、私たちの役割は、
「人に仏教をお伝えすること」
私の場合は、親鸞聖人にご恩がありますから、
「親鸞聖人を通じていただいた、お釈迦様の教えを、皆様にお伝えすること」
それだけですね。
それ以上でも、それ以下でもない、まさに、それだけ、です。

「お伝えする」ということが、非常に難しいことなので、「伝わるか」「伝わらないか」という問題は、ここでは無視して、仮に「伝えられる」とすれば、ということで話を勧めます。

個別のミッションとしては、
「教えを伝えることができた」
ら、そこで終了ですよね。
ミッション完遂です。

極めてシンプルです。
仏教を伝えるということは、伝えられた人は、幾分かでも、何かの呪縛から逃れられる可能性が学べたということですから、ともかく、何かから「解放」されるわけですよ。
だから、後は「面々の御はからい」というやつです。
自由です。
The「自由」。
ミッション「呪縛を断ち切り、野に解き放て」ですよ。

もちろん、仏教は道徳的なマインドも担保できていると思うので、そこにある「自由」は、「甘えた自由」ではなく、「理性の上に立つ自由」だと思います。

ところがですよ、私たち、そんなシンプルなミッションの向こう側を期待して、ミッションそのものをグチャグチャにしてしまっているんんですね。

「仏教を伝える」の先にあるもの。
「信者にする」「お金を落としてもらう」「信者を増やしてもらう」「お金を落とし続けてもらう」
と、いうようなことですね。
「自由」を手に入れるためのツールを渡して、「自由」を奪いたい、と、思ってしまうのです。

「そうは言うけど、俺たちにも生活がある」
というのは、別の問題です。
混同できる余地もありません。

「仏教が伝えられるなら、それで良し!」
せめて、その境地を目指したいと思います。

いや、私、強欲だから、無理だ・・・・。