このところ「サルブツ通信」で、「二種深信」だとか、「二種回向」だとか、そんな浄土真宗用語を扱いました。

まあ、よくありますね、なんか二つに分けて考える。

「二種深信」の場合なら、「法(仏)」と「機(人)」。

「二種回向」の場合なら、「往相」と「還相」。

こんな相対する二つの概念が出て来た時に、日本人には、二つの異なるものがあるかのように考える癖があるような気がしています。

 

「二種深信」は善導という、中国の方がオリジナルです。

「二種回向」も曇鸞という、中国の方がオリジナルです。

そもそも、日本仏教は中国で成立した漢訳仏典が輸入されたものです。

だから、中国仏教の支流であると考えても良いと思います。

にもかかわらず、中国仏教が道教の影響を非常に強く受けているという点が、あまり考慮されていないのではないかと思います。

特に、現在の浄土真宗では、道教思想排除されたのが浄土真宗であるかのように、考えられているように感じられます。

それも、「道教の書物を捨て、浄土教に帰依した」という、曇鸞大師の故事だけを理由に。

 

そんなわけありませんね。

中国の僧侶が菜食主義となったのは、道教の真似をしたからです。

その中国スタイルが日本に入ってきて、坊さんと言えば精進料理だとなってるわけです。

そんな基本スタイルにまで道教の影響があるのですから、中国仏教に、どれほどの道教思想が持ち込まれているかということは、考えるまでもないことです。

中国において、道教と仏教は、互いに影響し合い、多くの部分で融合してさえいるのではないかと思います。

 

道教に「陰陽説」というのがありますよね。

この「陰」と「陽」というのも、日本では、「陰」というもの、「陰」であるもの、と、「陽」というもの、「陽」であるもの、の二つがあるように理解されているような気がします。

 

しかし、実際には、そうではなく、「ものに陰陽あり」と理解しなければなりません。

一つの事象の中に「陰陽」が同居している、と言えばいいのでしょうか。

「陰」と「陽」は相対する概念だけれど、別物ではない、というかね。

 

だから、「機法」にしろ、「往還」でも、相対する二つの概念が出てきた場合には、二項対立で考えるのではなく、道教思想的な「陰陽」の関係性で考えてみるのも、有効な方法だと思います。