【作品情報】

タイトル:サブスタンス(The Substance)

監督・脚本:ジュリア・デュクルノー

出演:

デミ・ムーア

マーガレット・クアリー

デニス・クエイド

製作国:フランス=アメリカ

公開年:2024年(日本公開未定)

ジャンル:ボディホラー/フェミニズムSF



■“顔面資本主義”の崩壊現場を、スプラッターで描くという暴挙


ジュリア・デュクルノーは、前作『TITANE』で“家族の境界線を溶かすボディホラー”を完成させたが、『サブスタンス』ではよりシンプルで冷酷なテーマを突きつけてきた。

「老いる女は、どこに消えるのか?」という問いに対する答えが、まさか“背中が裂けて若い自分が出てくる”とは思わなかった。


主演のデミ・ムーアが引き受けた役柄は、もはや“女優業の成れの果て”そのもの。50歳を迎えた元セックスシンボルが、テレビ業界から退けられ、商品価値を失った自分の身体を憎み始める。ここまでの展開だけでも十分に刺さるが、デュクルノーはそこからさらに禁断のクローン生成SFへ突っ込んでいく。


マーガレット・クアリーが演じる“スー”は、エリザベスの若く美しい分身体という設定だが、その実態は“消費されるために生成された理想像”だ。しかも、彼女は自我を持ち、勝手にエリザベスのキャリアや人格を奪いにかかる。ここにあるのは自己肯定感の問題ではなく、“観られることに生きる者の生存権”の争奪戦だ。



■変容と崩壊の演出は、クローネンバーグの血を継ぎながらも女性的に再構築されている


映像演出の濃度は、前作『TITANE』以上。とくに背中の裂け目からスーが出てくるシーンは、デヴィッド・クローネンバーグの『ザ・フライ』的変容描写を意識したような肉体破壊描写だが、こちらはもっと湿っぽく、もっと血生臭い。


そして何より異常なのは、スーの存在が社会に歓迎されること。彼女は純粋に美しく、無垢で、愛らしく、しかもパッケージされたように整っている。あらゆる視線を受け入れ、欲望される準備が完了している。その裏で、オリジナルのエリザベスは崩れ落ちていく。背中、肌、骨、精神。

視線に応えるために生まれた分身が、応えられなくなった本体を削り取っていく構造は、フェミニズムSFでありながら、明らかにゾンビ映画の設計だ。



■『ヴィデオドローム』の映像論を、肉体論へと変換した映画


『サブスタンス』を観ていて思い出したのは、クローネンバーグの『ヴィデオドローム』だ。

あちらが“メディアによる肉体侵食”を描いたとすれば、『サブスタンス』は“視線と年齢による肉体の消耗”を描いている。テーマの根幹は近いが、本作はより直接的で、しかも女性の肉体を“被写体”から“発信体”へと変換する野心がある。


また、『ブラック・スワン』的な自己分裂ホラーの文法も使われているが、アロノフスキーが内面の狂気を優雅に描いたのに対し、デュクルノーは肉体の変化にすべての意味を託す。その潔さは、むしろ『スピーシーズ 種の起源』を彷彿とさせるレベルの物理主義。



■ラストの“顔だけが残る”ビジュアルに、すべてが集約される


終盤、融合体エリザスーが観客の前に現れるシーンは、もはや公開処刑に近い。

あのビジュアル、あの血しぶき、あのエンディング。

そして最終的に、顔だけが残ってウォーク・オブ・フェイムの星の上で溶けていく——という図像には、デュクルノーの怒りとシニシズムが詰め込まれている。


それは、ハリウッドが与えた栄光が、どれほど脆く、どれほど過酷なものであったかを、たった一枚の絵で言い切ってしまう演出だった。エンドロールを見ながら、ここまで徹底して肉体を削って見せるフェミニズム映画、他に類を見ない。


■総評


『サブスタンス』は、“観られる女性”という存在の終焉を、ジャンル映画の言語で描いた特異なホラー作品である。

グロ、変身、崩壊、融合といったジャンル的快楽をすべて押さえながら、視線と若さの搾取という社会問題をストレートに描いている。

ジャンル映画でここまでやれるのか、という感嘆と同時に、まだこんな映画が出てくるのかという驚きもあった。


ジュリア・デュクルノーは、クローネンバーグのボディホラーを受け継ぎつつ、それを女性監督として初めて使いこなしている存在だと思う。

血を流しながら笑う、その姿勢が本作にははっきりと焼き付いている。