中宮寺文殊菩薩立像 | ネコ好き☆SHINACCHI blog

中宮寺文殊菩薩立像

中宮寺特別展示が話題になっているようである。

国宝・天寿国繍帳が奈良国立博物館より一時返還され、平成24年3月16日~4月17日展示。



重要文化財・文殊菩薩立像が東京国立博物館より一時返還され、平成24年2月21日~3月31日という。



私が関西在住なら、なにはともあれ拝観しに行くのだが、関東の人間としてはそう簡単に行けるものではない。

天寿国繍帳は、2000年の東京国立博物館の日本国宝展と、法隆寺宝物館での特別展示などで拝見した。

文殊菩薩立像の方は、東京国立博物館の平常展(総合文化展)に、よく出陳される。

ほぼ360度展示を何度も拝見したことがあるので、今回はまあいいかなという感じだ。

それに中宮寺では、例の赤いジャンパーを着た「ナント・なら応援団」(南都銀行OBで結成されたボランティア

ガイドサポーター)が待ち構えているらしい。

誠にありがたいことではある。

が、誠に申し訳ないことではあるが、あの赤いジャンパーを見ると、どういうわけか厳粛な気分でお寺を

拝観するという気分にならないのである。

お寺のご住職がしてくださる解説を聴くのとは、全く違う雰囲気となるのだ。

東博では、運慶作とされる光得寺真如苑(当時は個人蔵)の大日如来坐像と、この中宮寺文殊菩薩立像の3体が

至近距離で展示されていたことがあった。

真如苑の大日如来坐像も、オークションにかけられて大騒ぎする前だったので誰も関心を示さず、皆、この3体の

前を素通りしていたものである。

つまり当時はこの3体を独り占めにして拝見できた。

さて、昨年5月4日のブログ でご紹介した『仏像ここだけの話 佐藤昭夫/著 』という本の、「Ⅱ奇仏珍仏」

というところに、この紙仏の中宮寺文殊菩薩立像について、詳しすぎるぐらいの解説が書かれている。

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この著者は当時、東博に勤務されていたので、十分に研究することが可能だったのだろう。

せっかくの機会なので、引用させていただく。


三 紙の仏さま

 紙でつくった仏像があるといえば、まさかと思う人も多いことだろう。しかし数こそすくない
が、ほんとうにあるのである。
 日本でつくられた仏像の材料といえば、何といっても木造が、そのほとんどを占めていること
はいうまでもないが、その他金属では、銅、鉄、真鍮、可塑的な材料としては乾漆、塑造、そし
て石造といった材料が主なところかと思われる。ここに掲げる紙製の仏像というものは、その例
のごく少ない、まことに珍しいものといえるだろう。紙製の像としては近世に入ってつくられた
と思われる肖像とか、人形のたぐいなどに紙粘土とでもいうべき、いわゆる紙塑を材料としたも
のが、間々見うけられるが、この論で対象とするのは、紙を貼り重ねてつくったものであり、奈
良・中宮寺所蔵の文殊菩薩立像(有名な飛鳥時代の半珈思惟の菩薩像を安置している尼寺として
名高い、あの中宮寺に伝えられ、現在は東京国立博物館でおあずかりしている像である)、岩手
県花巻市材木町・佐藤精三郎氏所蔵の地蔵菩薩坐像、埼玉県北葛飾郡栗橋町・経蔵院所蔵の地蔵
菩薩立像そして、岐阜市大仏町正法寺の釈迦如来坐像の四体にすぎない。このうち佐藤氏所蔵の
地蔵像は、かつて江刺高寺村にあったものと伝え、胎内に「しとく元年五月 をうしうゑさした
かてら村のもくちき行人 道山任海」と印された納経紙片が納められていた(司東真雄『眼で見
る江刺の仏像』昭和三十二年、江刺史談会)。これについては、なお未見であるため、後日を期
することとして、ここでは中宮寺、経蔵院、正法寺の像について述べておくが、近世に入ってか
らの作品は、これからも発見される可能性はあろう。

 まず中宮寺の文殊菩薩立像であるが、頭上に五髻(ごけい)を結い上げ、左手に経巻を執り、右手に金剛
劔を持つという姿で、その顔だちも、体つきも童子のふくよかさを見せ、いわゆる稚児文殊とし

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ての表現をとっている。現在像身部の表面すべてに漆を塗り、条帛や裳には切金文様が施されて
いる。これを見る限りでは独尊の文殊菩薩像としては、立像につくられている点で珍しいという
程度で、いわば何の変哲もない像と考えられるが、この像はもともと紙を貼り重ねてつくった珍
しい例である。寺伝でも「児文殊菩薩紙張像(寺伝以用明推古間人皇女御手跡紙張造之)」とさ
れている。かつて奈良・唐招提寺の鑑真和上像が、昭和十年の修理までは、頭部、右胸、右腕下、
右脛を覆う袈裟の一部、右膝頭などが紙貼りとなっていたところから、紙製像と誤られ、明治の
国宝指定の時にも紙製として、工芸の部門で指定されていたこともあったが、修理の結果は完全
な乾漆製であることが判明したので、この像が現在重要文化財及び重要美術品に指定及び認定さ
れている彫刻のうちでは、唯一の紙製像の作例なのである。
 現状では表面はすべて漆塗によって覆われており、制作の技法など、うかがう術(すべ)もないが、こ
の像を昭和十四、五年ごろ修理したのが、故明珍恒男、菅原安男の両氏であり、菅原氏の発表し
た修理記及び同氏からの聞書とによって勘案してみると、次のようなものと思われる。
 まずやや太い巻物、『金剛界略次第』及び『胎蔵界略次第』の二巻を上下に並べ、補強のため
と思われるが、この二巻の接合面にまたがるように、『法華経如来寿量品』『同薬王品』『不空
羂索法次第』の三冊の冊子本を、巻物をだくように外側に巻き、これを体躯の中心とし、上部の
巻物の中心に竹箆(たけべら)を刺し、その上端に『施餓鬼法』一巻及び消息等一括をまとめて、まるめたも
のを刺して、頭部の芯としている。さらに紙片を巻いたものによって、両腕をつくり出している。
現在左腕の分はとり出して表具してあるが、これは『具注暦』であった(右腕の分はなお巻いた
まま胎内に納められている)。胸部には仏舎利及び香木の粉末を紙片に包んで、さらに金襴の裂
に包んだものを各二包納め、これによって胸部の張りを形づくったもののようである。
 こうしてつくられた芯部の上に、内部では反古紙を、表面に近くなると白紙を張りつけつつ、
次第に形を整えていったものであろう。強い肉づけを与えるためには間にヘギ状にした木片や折
りだたんだ紙なども張りこめ、裳の衣褶をつくるためには、紙片を撚って、こよりをつくり、こ

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れを蛇行させるように貼って、自然な起伏をつけており、隆起の強い部分には二重三重にこより
を重ねだり、裂を貼っている。手や足の先といった、紙では強度の保持し得ない部分は、木彫に
よったものである。また頭部は前述のように、丸めた紙片の上に紙を貼っているが、途中何回か
にわたって、あたりのためと思われるが、貼りつけた白紙の上に目鼻口を墨書している。この段
階で、頭部でとくに強度を必要とした部分、たとえば頸部などには、ごく薄い絹を貼りつけてい
る。さらに表面に近くなると、目や口に穴を開けてあるので、この部分にくぼみをつくり、上か
らレンズ状の水晶片を貼り、さらにその周囲を紙でおさえたものかと思われる。鼻は三角形の紙
片を重ねて隆起をつくっており、唇も同様な技法によったものであろう。
 頭部の髪の毛筋は重なった紙を左右から斜めにそいで溝をつくっている。こうした紙の層が表
に出る部分には当然のことながら上から紙を貼っている。また頭上の髻(もとどり)はこよりをまるめてつ
くったもので、これを竹釘で刺し、その一端を頭に刺して固定している。
 このようにしてつくり上げられた像に彩色を加え、かつ截金(きりかね)が施されているが、現在では、ほ
とんど確認することができず、わずかに、後述する本像の修理の際にとり出された像身の破片に
よってうかがい得るにすぎない。この破片も像のどの部分に当るかは、はっきりしないが、おそ
らく裳の一部、腹部から腰のあたりにかけてかと思われるカーブを持っている。これによると白
土下地を施した上に薄い群青彩、いわゆる縹色(はなだいろ)地とし、衣の縁に二本の截金線、その内側に宝相
華(ほうそうげ)かと思われる文様を、これも截金で描き出している。
 さて、こうして完成した像であるが、紙と糊とでかためたようなものであるだけに、造像後、
間もなく紙魚(しみ)の襲うところとなったと思われ、しばらくして、かなり危険な状態になったらしく、
表面に麻布を置き、漆塗をして、それ以上の崩壊を防いだもののようである。こうした処置は菅
原安男氏によれば、造像後10年ぐらいの間になされたのではないかという。確かに現在漆塗の
表面に施されている截金文などのぐあいからすれば、制作の時期から極端に下った時代のことと
は思われず、すくなくとも数十年ほどの間に、この処置がなされたと想像される。
 この修理の際、像の正面部はそれほど傷んではいなかったか、あるいは入念に補修がなされた
かしたらしく、裳のひだなども、きちんと整っているが、像の背面、とくに腰裳のあたりは、そ
うとうな損傷をうけたらしく、衣文線のくずれが甚だしいのを、背面である故にか、そのまま固
めてしまっている。
 本像は、その後昭和修理までの間に、もう一度補修が加えられたらしく、頭上の五髻(ごけい)のうち、
向かって右前の一つを除いては、四個とも木製後補のものに代っており、残った当初の一つも、
表面の漆塗はほとんど失われてしまい、内部のこよりを巻いてつくった状態が、はっきりとわか
るほどに傷んでいる。さらに正面中央に下る腰裳をとめる帯の緒も木製で補われているが、これ
は錆漆を施した上に金泥で蔓草(つるくさ)文を描いている。これらの補修はおそらく近世に入ってからの仕
事かと思われる。この際表面の一部はもう一度漆塗による手なおしがなされているようにも思わ
れる。
 ところが、近年に入ってから虫害がさらに進行したので昭和修理がなされたわけである。この
修理の前には頸部が三道のあたりで切れ、内部の竹箆のみを力にしてやっと形をたもっているよ
うな状態であった。左肩から腕の付根にも裂傷があって、巻いたまま躯幹部にくい込んでいる
 『具注暦』と腕付根の下についている竹製の棒とによって、わずかに支えられている。また像底
部も両足先と共に像身から、ほとんど離れてしまっている。もちろん表面には虫喰穴が随所に見
られる。菅原氏が首、腕をとり離してみると表面ほど虫損が甚だしく、ほとんど漆の外皮のみが
残り、これに紙が付着しているような状態であった。そこで内容品をでき得るかぎりとり出し、
表面の旧状をとどめるために、内部、つまり紙製の部分をさらうようにとり出した上、内面全体
にこくそ漆をある程度の厚さに置き、強度を保たせるために、体中心部に頭頂から像底に至る木
製の芯柱を入れ、頭部、肩部、腹部、脚部に、それぞれ横に棚状の板を置き、内面、主として頭
部内面に金属の薄片を埋め込んでいる。像底部は木造によって、まったく新しくつくったもので
ある。その際とり出された内容品は巻子・冊子の形のものは裏打、表具の仕立てなおしをして保
存、消息類の反古などはあらためて巻子仕立てにして保存した。またその他の部分品なども一括
別に保存されている。
 次に本像の現状だが、現在表面すべてが漆塗となっていることは前述のとおりであり、白毫に
は水晶を入れ、玉眼を嵌入している。髪部はほとんど漆塗のみで、彩色の痕跡はなく、上半身の
肉身部は漆塗を透して、白色ないし肌色の彩色があることが、わずかながら認められる。これが
果たして当初のものかどうかは不明で、あるいは第一回ないし、その後の修理の際に漆塗の上か
ら施されたものが、さらにその後の修理において漆塗の下にかくされてしまったものではないか
とも考えられる。また衣部には截金が施されているが、左肩から右脇腹にかかる条帛は、縁に二
重の線、その内側に網目文、裳は表に麻葉つなぎ文地のところどころに二重円圏をつくり、その
なかに華文と思われるものを施している。二重になった裳の折返し部の下段、つまり裳裏には縁
に房状の上下に流れる平行線、その内側に二重線を二組つくり、その間には菱形の霰をつなげて
いる。これまでが縁部で、さらにその内側の文様は袈裟襷(けさだすき)を加えた格子文である。いずれも入念
で、かなり格調の高いものといえ、たしかに造像後、それほど隔たらぬ時期のものといってよか
ろう。ただ全体に剥落が甚だしく、文様のはっきりしない部分も多い。上半身には条帛の上にさ
らに天衣をつけているが、現在天衣には截金文は認められない。この天衣は左肩から前にかかる
部分は垂直に下りて、左腕内側にややたるみをつくり、左腕第二臂にかかり、左体側を下るよう
になるべきだが、現在左腕に接する部分から先を欠いている。また左肩から背後に行く分の天衣
は、条帛と同様に右脇腹にむかい、右腕第二臂にかかる前に、ややたるみをとり、腕にかかって
右体側を下へ流れるのだが、これも現在は右腕にかかったあたりで、その先を欠失している。像
底部は前述のごとく木製で、地付部より約五センチほどのところで本体に接合しており、像底に
は台座の柄(ほぞ)に立てるための丸穴があいてぃる。
 この像には付属として、台座光背があるが、いずれも近世の補作であり、右手に持つ銅製鍍金
の金剛劔、左手に握る木製の経巻もまた後補である。
 この像の制作年代であるが、幸いなことに、本像の胸部に納められていた舎利の包紙に願文と
年紀が記されている。

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とある。
 これによって文殊菩薩像の胎内に舎利を納めたことが知られ、この裏に記された文永6年
(1269)という時期を中心に、この像が造立されたことが推測される。願文にも記されているよ
うに「年来保持」していた舎利であり、それを包んでいた紙を平らにのばして願文を記したもの
らしく、一部に二重の線になったり、かすれたりして全文を読み得ないのは、まことに残念であ
る。
 とくに包紙その一の裏の年紀のあとに「信□」とあるが、この不明字は如とも、加とも読めそ
うである。あいにく、この文字のつくりの部分に虫喰があって、なんとも見当をつけ難い。包紙
その二の裏にも、ほとんど同文が記されているが、このほうはもっと読みづらく、参考とし難い。
この人物は、本像造立の中心となった人物で、おそらく中宮寺の尼僧の名を記したものと思われ
るのだが、これをもし「信如」とすれば、たいへん興味深いところである。
 というのは、信如という人は興福寺慈性院出身の尼僧と伝えられ、のち中宮寺の寺主として、
この寺の中興に大いに力のあった人物だからである。そのもっとも有名な逸話は、中宮寺の寺宝
として有名な天寿国繍帳を法隆寺綱封蔵内に探して、これを求め得たことである。それはこの像
の制作より数年ののち、文永11年(1274)二月二十六日と伝えられている。さらに現在中
宮寺に所蔵されている『霊鷲山院勤行事』、中宮寺における尼僧たちの修行・行事の次第などを、
こまかに書き記したものをつくり上げたのも信如であり、その奥書によると弘長2年(1262)
のことである。また、これも中宮寺に蔵されている奈良時代書写の『瑜伽師地論』に朱点朱書を
加えたのは晩年のことである。現存する同論の第卅二は奥書に弘安5年(1282)正月十二日、
七十二歳の時に加点を了ったとし、第七六は同年三月廿三日に了と記している。ここでも、その
加点のスピードから信如の熱烈な信仰・修行の姿勢がうかがわれるが、こうした熱烈な修行者を
中心として、この像がつくられたとすれば、その丹念さも、さこそと思われる。中宮寺の尼僧た
ちが修行のあい間に、心をこめつつ、一枚一枚と経巻、消息などを貼り合わせて、この像をつく
り上げてゆくさまは、まさに天寿国繍帳を制作するに際して、宮廷の采女たちが、太子への追慕
の心を、刺繍の一針一針に托していったのと通ずる仏への限りないあこがれであったろうし、そ
こに何ともいえない妖しくも美しい光景を想像するのは私一人だろうか。
 さらに推測するならば、これらの経巻類にまじって、消息の反古を多く使用したというのも、
これらの消息の主までをも造像の利益(りやく)にあずからせようとするための配慮とも考えられ、そこに
いわゆる消息経と一脈相通ずる発想ともいえよう。ちなみに記すが、消息経というのは、故人の
菩提のために、消息、つまり手紙の反古を利用し写経したもので、そのまま裏面に写経したり、
表を使う時には、上に雲母(きら)を引き、文字を塗りこめて、その上に書いたり金銀箔で装飾したりす
る。また消息ばかりでなく、故人の筆跡などを記したものをすき直し、うす墨色のまま写経の料
紙にしたり、すき直しの時に故人の毛髪などをすき込んだりする(これを還魂紙という)。消息
をすき直して料紙としたのは清和天皇の没後、女御の藤原多美子がはじめたといい、その後一つ
の流行になっている。
 さてこの像の造像の技術については、まったく素人ともいうべき尼僧たちのみによって造り上
げられたとするには、この像は、あまりにも本格的なものと思われ、造像に当っては、当然そこ
に仏師、絵仏師などの指導ないしは参加ということが想像される。事実像の眼鼻立ちの下書きを
見ても、そのいかにも手なれた調子は、やはり職業的な作家の手であろうことが見てとれる。
 さて、この像のように、一皮かぶった状態の像にあっては、作風、作家の系統といったものを
云々すること自体が無駄な話かも知れないが、一応これについて触れてみると、故小林剛氏のよ
うに慶派仏師の系統だとする説もあるようだが、この当時、慶派の仏師として、中心となり、も
っとも活躍していたのは、運慶の孫に当る康円である。このころともなると慶派仏師の間でも、
初期における豪快な気分は失われ、さらに宋風彫刻の要素をまじえた作風が行なわれていたが、
なお慶派の特色ともいうべき写実的な傾向は続いて見られる。しかし、この像には、そうした慶
派的な特色は、むしろ稀薄で、かえって稚児文殊という概念が先行し、可愛らしさを強調し、顔
だちにしても体つきにしても、幼児のそれのような表現を心がけている。その意味では一種の類
型化が見られ、いわば当時流行した聖徳太子二才像、南无太子像に見られる傾向と一致するとも
いえよう。これが、この像をして人形的な表現に陥らしめているところであり、それだけに、そ
のなかから流派的な特色を捉えることは難しいといえよう。当時の慶派の作品にしても、康円な
どの作を通じて見る限りでは、一種の工芸化、形式化が行なわれていることは認められるが、衣
文表現など、やはり慶派の作品とは自ら異なった表現が見られ、むしろ旧派仏師の一派の参加に
よってつくられたものかも知れない。
 最後になったが、この像の法量を記しておく。
 法量(単位センチ)
 像高 52.2  面幅 6.3  肩幅 13.5  臂張 16.9
 頭長 12.1  耳張 7.5  胸奥(右)7.6
 面長  6.3  面奥 7.8  腹奥 8.6
(『仏像ここだけの話 佐藤昭夫/著』 p.92-p.105より)