武術と武道について
「武術」と「武道」、ふたつの言葉を混同して使用されている方を時々みかける。
そこで、このふたつの違いや関係について、自分なりの考え方の整理をしておきたいと思う。
ただしこれから述べることは、自分の十数年の合気道稽古の中から導き出した、現時点での拙い考え方である。
これが正しいわけではもちろんないし、違う解釈があって当然であることをお断りしておく。
「武術」と「武道」、それはひとことでいうと「行為」と「結果」である。
行為を重ねることにより結果が生まれ、またその結果が行為の指針となる、そういう関係である。
「歩く」ことと、「道」の関係を考えていただくとわかりやすいと思う。
道は、誰かが歩くという行為の結果、できあがるものである。
もしくは、歩く際の案内役となるものである。
「武術」とは歩く行為であり、「武道」とは歩いた結果発生して存在する道のことである。
つまり、「武術」とは読んで字のごとく“武”の“術”であり、具体的な行為そのものである。
武道におけるすべての技は、本来は武術である。
武術とは、どのような状況下にあっても自分の身を守り、相手を無力化(場合によっては死に至らしめる)する術である。
戦闘や、生命をかけたやり取りが日常であった時代に編み出され、今日に至るまで練磨され抜いてきた、日本が世界に誇るべき身体技術である。
それに対して「武道」とは、読んで字のごとく、“武”の“道”である。
武道とは、武術練磨の積み重ねの結果発生する、心得であり、考え方であり、生き方のことをいう。
江戸時代以降、生命をかけたやり取りが非日常になった時代に昇華した、やはり日本が世界に誇る精神文化であり、総合文化である。
「術」と「道」とは切っても切れない関係にあり、両者のバランスが非常に大切である。
つまり、やみくもに歩いても、迷走するばかりである。
逆に、歩くことをせずに道を知ることはできない。
先人が残した道の存在を確認し、そこを自分で歩くことによって初めて、道がより確かなものになるのだと思う。
ここで、「武」とは何かについて、述べておきたい。
「武」とは“矛(ほこ)”という文字と、“止める”という文字から成立している。
つまり「武」とは“矛を止める”、つまり“争わない”という意味である。
非情で冷徹な生命攻防の術の裏には、まず“争わない”という大前提があるのだ。
“争わない”とは、どのような相手であっても、相手を思いやり、相手を尊重することである。
「武術」とは争わないための術であり、「武道」とは争わない生き方のことなのである。
合気道は、武道である。
合気道の道場で稽古をする技はすべて、本来は武術である。
その技のひとつひとつは、一瞬の生命攻防のための術をベースにしているのである。
しかし、その根本にあるのは“争わない心”である。
もしくは“争わない心”を養うために稽古をしているのである。
“争わない心”を忘れた武術は単なる暴力であり、当然のことながら武道ではない。
合気道を稽古する者として、常にそれを念頭においておきたいものだと思う。
そこで、このふたつの違いや関係について、自分なりの考え方の整理をしておきたいと思う。
ただしこれから述べることは、自分の十数年の合気道稽古の中から導き出した、現時点での拙い考え方である。
これが正しいわけではもちろんないし、違う解釈があって当然であることをお断りしておく。
「武術」と「武道」、それはひとことでいうと「行為」と「結果」である。
行為を重ねることにより結果が生まれ、またその結果が行為の指針となる、そういう関係である。
「歩く」ことと、「道」の関係を考えていただくとわかりやすいと思う。
道は、誰かが歩くという行為の結果、できあがるものである。
もしくは、歩く際の案内役となるものである。
「武術」とは歩く行為であり、「武道」とは歩いた結果発生して存在する道のことである。
つまり、「武術」とは読んで字のごとく“武”の“術”であり、具体的な行為そのものである。
武道におけるすべての技は、本来は武術である。
武術とは、どのような状況下にあっても自分の身を守り、相手を無力化(場合によっては死に至らしめる)する術である。
戦闘や、生命をかけたやり取りが日常であった時代に編み出され、今日に至るまで練磨され抜いてきた、日本が世界に誇るべき身体技術である。
それに対して「武道」とは、読んで字のごとく、“武”の“道”である。
武道とは、武術練磨の積み重ねの結果発生する、心得であり、考え方であり、生き方のことをいう。
江戸時代以降、生命をかけたやり取りが非日常になった時代に昇華した、やはり日本が世界に誇る精神文化であり、総合文化である。
「術」と「道」とは切っても切れない関係にあり、両者のバランスが非常に大切である。
つまり、やみくもに歩いても、迷走するばかりである。
逆に、歩くことをせずに道を知ることはできない。
先人が残した道の存在を確認し、そこを自分で歩くことによって初めて、道がより確かなものになるのだと思う。
ここで、「武」とは何かについて、述べておきたい。
「武」とは“矛(ほこ)”という文字と、“止める”という文字から成立している。
つまり「武」とは“矛を止める”、つまり“争わない”という意味である。
非情で冷徹な生命攻防の術の裏には、まず“争わない”という大前提があるのだ。
“争わない”とは、どのような相手であっても、相手を思いやり、相手を尊重することである。
「武術」とは争わないための術であり、「武道」とは争わない生き方のことなのである。
合気道は、武道である。
合気道の道場で稽古をする技はすべて、本来は武術である。
その技のひとつひとつは、一瞬の生命攻防のための術をベースにしているのである。
しかし、その根本にあるのは“争わない心”である。
もしくは“争わない心”を養うために稽古をしているのである。
“争わない心”を忘れた武術は単なる暴力であり、当然のことながら武道ではない。
合気道を稽古する者として、常にそれを念頭においておきたいものだと思う。