モラハラのことをずっと書いていますが、私が自分自身に何があったのか

殆どここへは書いていなかったので、平行して書いていこうと思います。


私は、生まれてから祖父が亡くなる2歳半頃まで、祖父母に育てられていました。

表向きは、当時、祖父は能楽師だったこともあり、
明治生まれで、ミッションスクール卒の祖母に、私に日本女性としての心得や行儀作法をしっかり教育するようにということだったようです。
ですが事実は、違っていたことをかなり大人になってから気が付くことになります。


祖父が亡くなったあと、私は、父母と生活するようになりました。
父は、消防署に勤めていましたが、家庭ではモラオをそのもので、お茶の出し方すら、たかが温度が、気に入らないだけで、「こんな熱いお茶飲めるか!」と母へ茶碗を投げつけ、怒鳴り、殴る蹴るをしていました。
私は、その頃によくひきつけをおこしていたそうです。

生みの母は、毎日のようにあった、父の虐待に耐えられず家を出てしまいました。

母と最後に話をしたのは、私です。
父と弟が昼寝をしていた時、荷物を持って玄関で「パパと弟をお願いね。」
と、泣きそうな顔で言っていたのを今でもハッキリ覚えています。

私は、母に「どこに行くの?」と聞きました。
母が答えに困っていると、母と大きな荷物を見て、「病院?もしかして、赤ちゃん?私も行く。」と、今思えばとんでもないことを聞いてました。
母は、悲しそうな顔をして「そう。病院に行くの。マイちゃん(祖父が付けた呼び名)もいなかったら、パパと、とっくん(弟)が起きたとき、心配するでしょう。」
私は、「今度は妹がいいなぁ。」とワクワクして送り出したのです。

父が起き、母が赤ちゃんが生まれるかもしれなくて病院へ行ったと伝えると、
首をかしげ、みるみる顔色が変わっていきました。
「探してこい。」と言われ、
近所の大きな病院から小さな病院まで、母を探して回りました。
最後に、家の近くの診療所へ行く頃には、母はもう帰っては来ないような気がして、泣きながら走り、診療所へ行きました。

診療所の先生に、訳を話すと
「まいちゃんが泣いていたら、お父さんと弟がもっと心配するでしょう。笑って家に帰りなさい。」
そう言われて、笑顔で家に帰りました。
と、この日のことは、ここまでしか、記憶がありません。
小さい頃の話で、単に覚えていないのか、その後家に帰ってからのことを覚えていたくなくて覚えていないのか。。

しかし、この出来事は、ある時を境として、父や後妻から、
母が出ていったのは、私のせいだ。だから私にだけ最後に話をして出ていったんだとか
赤ちゃんがの話から、母が浮気をしていたとか
だらしない母親だなど
と言われ続けることになります。


それから、一年ほど過ぎて、私が小学校に上がる直前の頃です。
父が祖母の家に、今の母親を新しい母になる人だからと連れてきたのは。

家に来たとき、祖母に対して「お母さん」と言い
私たちを「ちゃん」づけで呼んび、気を遣っているような優しい言葉を話していましたが
言葉とは裏腹に、後妻に入る人の目は、笑ってなく、逆に怖いくらいで
二人が帰ってから、祖母に、あの人が母になるのは嫌だと、泣いて訴えました。

父と後妻は、その後直ぐに、私や弟や祖母は呼ばず、二人だけで職場の人を呼んで結婚式を挙げました。

私自身が生まれて虐待を受けたのは、小学校一年の夏からです。
二人の住居へ私と弟が引っ越していった翌日の朝
後妻は、職場へ向かう父を笑顔で見送りながら、
「男の子は可愛いからいいけど、女なんか大っ嫌いなんだよっ。しかも、どこの馬の骨かわかんねぇようなガキ。なんであたしが面倒みなきゃいけないんだ。お前は、仕方ないからおいとくだけだからな。覚えておけ。お前の面倒なんか見る気はないんだよ。迷惑なんだよ。」
そう言われました。
初めて聞いた、汚い言葉とそれを女性が話していることに驚き

私が第一印象で受けたイメージ、そのままだったことにも愕然としました。

その日から、私は食事すら満足に与えてもらえず
祖母に作ってもらったワンピースや買ってもらった服は着させてもらえず
弟が後で着れる服として男物ばかり与えられ
髪型もベリーショートにし
祖母や父が心配しないように、この母と上手くやっていけるように
努力する日が始まりました。


(続く)