どうもどうも、けいです。

 

「高校では何をしていましたか?」という問いに対して、

「地域の魅力を発信する活動をしていました」と答える私。

…ウソじゃないんですが、事実ではあるんですが。

なんかウソを言ってる気分。

 

そんなことから始まったブログシリーズ第15弾。

本日は能生駅です。

 

ではでは、どうぞよろしくお願いします。

 

15-1.能生駅 概要

能生駅は、新潟県糸魚川市にあるえちごトキめき鉄道の駅です。

日本海ひすいラインのみが乗り入れる単独駅となっています。

 

駅は2面4線で、2番線と3番線を本線としています。

1、2番線が下り直江津方面、3、4番線が上り糸魚川方面ですが、

定期旅客列車に1、4番線を使う便はありません(貨物は毎日使ってます)。

ほか、いくつかの側線を有しており、たまに保線車両が休んでいます。

 

日本海ひすいライン内で糸魚川駅ともども接近メロディーを持たない駅ですが、

警報音が使われてはいます。

えちごトキめき鉄道管内では転換後たびたび

接近メロディーの大規模な更新が起きるのですが、

能生駅の警報音はしぶとく生き残ってきました。

なお、音色は隣の筒石駅とも違うもので、

かつて脇野田駅の構内踏切に使用されていたものと同じです

 

観光列車に関してですが、えちごトキめきリゾート「雪月花」は基本通過です

(専用の停目は設置だけしてあります)。

対する急行は4号のみが通過で、1~3号はすべて停車します。

特に1号では駅前の笹寿司工房「なごみ」による笹寿司販売と、

旅館「汐路」による指定席利用者への釜めし積み込みが行われ、非常に賑わいます

(釜めしの容器などは3号で降ろして返却となります)。

 

かつて駅周辺は能生町という独立した市町村で(2005年糸魚川市へ編入合併)、

現在でも駅周辺は比較的発展しており利用者も多いです。

駅近くには県立海洋高等学校があるため、朝夕は学生の利用もあります。

 

15-2.能生駅 駅設備

能生駅は名立駅と同じく高架駅の分類です。

改札はホームより下のフロアにあり、連絡通路が設けられています。

 

駅舎内は特にこれといって目ぼしいものはありませんが、

日本海ひすいライン内では糸魚川駅を除いて唯一の駅員配置駅です

(筒石駅と青海駅は2019年に駅員が撤退し無人化された)。

このため、日中は全ドア開放が実施されます。

 

発車ベルの設備がありますが、電源が切られているようで押しても鳴りません

(無断で押したわけではなく、乗務員が押した場面に立ち会って確認しました)。

 

トイレの設備ですが、改札外に1ヶ所です

駅を出て右側に水洗式のものが設置してあります

 

駅の両端は名立駅ほどでないにしろトンネルが近く、

当駅より糸魚川方には能生川橋梁を隔てて木浦トンネルが、

直江津方には名立駅まで続く全長11km超えの頸城トンネルがあります。

 

当駅付近の津波避難場所も記しておきます。

糸魚川市のハザードマップによると能生駅は浸水想定がありませんが、

沿岸部は高いところで3m以上浸水する想定です。

津波の到達猶予時間もほとんどないと予想されるため、

駅周辺で大きな揺れを感じたら

津波警報を待たず直ちに以下の場所に避難してください

・能生駅前広場(11.2m)

・海洋高等学校(37.4m)

・笠原建設資材置場(35.6m)

※詳しい場所は糸魚川市のハザードマップをご覧ください(カッコ内は海抜高度)

 

15-3.能生駅 周辺と駅の歴史

能生駅周辺はかつて能生町に属していましたが、

漁港があったことから、やはり漁業で生計を立てていたものと思われます。

2005年まであった能生町の町域になったのは1954年の合併で、

(旧)能生町、能生谷村、磯部村、木浦村の4町村が合併し

能生町が新設されました。

 

現在、新潟6区でよく出馬している衆議院議員に高鳥修一氏がいますが、

その父・高鳥修氏が1954年から4年間、能生町の町長を務めました。

これは当時全国最年少(25歳)での就任で、

高鳥修氏はその後、総務庁や経済企画庁の長官を歴任する大物となりました。

 

鉄道の話に移りましょう。

能生駅は1912年に信越本線支線(当時)が糸魚川駅まで延伸した際に同時に開業し、

当時は能生町役場などがある町中心部の近くに設置されました。

 

能生町がかつてから漁業で栄えていただろうという証拠として、

コンクリートの穴の逸話があります。

 

当時、能生ではイワシが大量に獲れたため、浜で干していました。

そのイワシの油で浜の砂が固まり、中に虫が入り込んだのです。

これに気づかず待合室土間のコンクリートの打設に使ってしまい、

固まり切っていないコンクリートの中から虫が這い出してきたのでした。

このせいで、綺麗に仕上げたはずの土間が翌朝穴だらけになっていました。

 

そんな豊富な能生の海産物は貨物列車で運ばれていきました。

1951年では、発送品目は上位から木材、鮮魚、練炭、玄米の順だったようです。

 

しかしながら、前3つの記事で何遍も記した通り、

当時の北陸本線は土砂災害で頻繁に運休を発生させていました

戦後、輸送量の増加に直面するとついに北陸本線は現行設備で対応できなくなり、

全線の複線電化が計画されます。

 

特に土砂災害の発生が多かった糸魚川~直江津間は、

同時に内陸部をトンネルで貫いて短絡することも検討されます。

 

しかしながら、この際に地質調査が相当内陸奥深くまで入っていたことや、

新聞で先行して国鉄が長大トンネルを掘るという構想があることを報じたため、

いつしか話が大きくなり、

国鉄は全長24kmの世界最長トンネルを掘るつもりらしい」という噂が立ち、

やがて大規模な複線電化反対運動へ繋がってゆきます。

 

国鉄は現在線の線増も検討しますが、土砂災害という課題を解決することは難しく、

現在線の線増案は早々に頓挫することになりました。

こうして国鉄は新線に切り替えることを決定し、以下の3案で検討を進めます。

 

  1. 能生~直江津間を新トンネルで通過、筒石~郷津の5駅は放棄
  2. 能生~有間川間と谷浜~直江津間を短絡、筒石、名立、郷津の3駅は放棄
  3. 能生~名立~有間川間と谷浜~直江津間を短絡、筒石、郷津の2駅は放棄

※国鉄内ではそれぞれA案、B案、C案。以下この記事でもこちらに準拠

なお、どの案も浦本~能生間はトンネルで短絡するとされました。

 

当初、B案が費用面で有利だとされましたが、

列車待避のための信号場をトンネル内に造らねばならず、

4線分の線路を収容するトンネルの建設が難しかったこと、

また駅がなくなる名立町の強い反対があったことを受け、

国鉄はC案への転換を余儀なくされます

 

しかし、能生町にとってみればC案も到底呑めるものではありませんでした。

筒石駅が廃止されることと、

能生駅が内陸へ移転してしまうことが受け入れがたかったのです

 

能生駅はもとから町の中心部という、非常に便利な位置にありました。

これを移転させろというのですから、町側からすればたまったものではありません。

 

町はあくまで筒石駅の存続を強く求めましたが、

能生駅移転に伴う補償の要求も同時に行っていたとされます。

 

しかし、能生町の中では徐々に

駅を内陸へ移転させることを許容する声が出始めます。

なぜでしょうか?

 

実は当時、既に能生町の中心部は飽和しており、

市街地を南に拡大するほかありませんでした

こうなると旧駅の位置では線路で市街地が南北に分断してしまいます。

新駅へ移転することで、この問題は解決可能なのです。

 

かくして能生町は能生駅の移転を許容。

筒石駅の存続問題も決着がついたため、

能生町が北陸本線複線電化に賛成することとなりました

1969年、能生駅が約700m内陸へ移転し、ここまで駅前通りが延伸。

スーパーマーケットが開店するなど、市街地の拡大が行われました。

 

貨物設備は新駅移転後も引き継がれましたが、

移転わずか6年後の1975年には合理化で貨物扱いが廃止になっています

名立駅と同じロジックで貨物取扱量が激減したのでしょうか。

1982年には荷物輸送が自動車代行となり、85年には完全に廃止されるに至ります。

 

能生駅にはもう一つ歴史的なエピソードがあります。

特急「白鳥」にかかわるトラブルです

 

時は再び旧駅時代に戻って1961年。

この年、大阪~青森・上野間に特急「白鳥」が設定されました

(大阪~直江津間は併結、直江津で切り離し上野行きは信越本線を経由)。

 

北陸本線は1961年ですから当然単線非電化の時代。

そのため、上り「白鳥」が能生駅で下り列車と交換するダイヤが設定されました。

客扱いをしない運転停車です。

…だったのですが

 

なんと、金沢鉄道管理局が作成した当駅掲出用の時刻表に、

誤って上り「白鳥」の時刻も書き込まれてしまったのです

さらに一部の市販時刻表にまで時刻が掲載されました

どうしてこのようなミスが起きてしまったのでしょう?

 

根本原因は金沢鉄道管理局担当者の認識違いという、

ただの人間なら必ずやらかしてしまう些細なミスでした。

本社や中部支社には、

上り「白鳥」は能生駅での停車が運転停車だと周知されていたのですが、

これを金沢鉄道管理局に伝える際に客扱いするか否かの連絡をしなかったのです

 

事情を分かっている人間からすれば言うまでもないことだったのでしょう。

能生にお住まいの方には大変申し訳ないのですが能生は閑散とした漁村であり、

準急列車すら停車しない駅である

ゆえに、華の特別急行列車なんぞが客扱いするような駅ではない

少し考えれば自明ではあるまいか――

国鉄や中部支社の言い分はこうだったのでしょう。

 

しかし、金沢鉄道管理局の視点に立ってみれば、

優等列車のダイヤ、それも初めて設定されるものなど、

どのようになるかは一切見当がつきません

よって「能生駅に特急を停車させる」という情報だけでは、

客扱い有りか無しかの判断がつかないのです

判断材料は金沢鉄道管理局にないのですから、

能生駅が客扱いするということを疑うことはできても、

「しない」と言い切れる根拠はどこにもなかったのです

 

このすれ違いも、上層部が「当然だ」と決めつけず客扱い有無まで伝えておけば、

金沢鉄道管理局が上層部に問い合わせれば、おそらく事前の解決ができたでしょう。

「ただの人間なら必ずやらかしてしまう些細なミス」ですが、

報連相を徹底していれば防げるヒューマンエラーでもあったのです

 

しかし、今回は最後まで「能生駅では運転停車」の情報の徹底周知が行われず、

ついにダイヤ改正日を迎えてしまいました。

 

能生町は特急「白鳥」が能生駅に停車すると聞いて

蜂の巣をつついたような騒ぎになります

花束の用意はもちろん、なんと「ミス能生」なる肩書の人を任命するなど、

特急「白鳥」到着を出迎える祝賀会の準備が進められました。

 

ダイヤ改正当日、14時34分に特急「白鳥」が能生駅に到着。

地元の婦人会が浴衣で踊って特急を出迎え、乗務員に花束を渡します。

しかし、特急「白鳥」は運転停車です。ドアなど開くはずもありません

地元が特急「白鳥」が客扱いをしないと知ったのはこの時が初めてでした

 

トラブルは「白鳥」車内でも起こっていました。

上野から来る特急「白鳥」には能生駅で降りる予定の男性2名が乗っていました

一部の市販時刻表にまで時刻が載せられたのだから

能生町民以外も間違えるのは無理もありません。

 

彼らが気がついたのは青森から来る「白鳥」と併結する直江津駅で、

幸いにして通り過ぎるという事態はすんでのところで回避しますが、

直江津駅で不本意な下車を強いられることになりました

彼らは後日国鉄に強く抗議したといいます。

 

この一連の騒動は「国鉄の不祥事」としてメディアによって忽ち全国に知れ渡り

(例:朝日新聞1961年10月3日朝刊より

「ぬか喜びの特急停車 北陸線能生駅 国鉄が不手際」)、

俗に「能生騒動」と呼ばれることになりました。

終いには能生駅のローマ字表記の一例"No"と英単語"no"をかけた

能生はNO!」という流行語まで生まれてしまいます。嬉しくないだろう…

 

なんにせよ、地元能生にとっては後味の悪い結果に終わりました。

 

なお、その騒動絡みかは分かりませんが、

この2年後の1963年に糸魚川~新潟間に準急「ひめかわ」が設定されると、

下りのみながら能生駅も正真正銘の客扱い停車駅に含まれました

この時、能生駅には念願の優等列車停車が叶ったのです。しかし準急…

 

1982年にこの準急の格上げ先である急行「ひめかわ」が廃止になりますが、

代替として特急「北越」が上下1往復停車するようになります

2000年代前半にはこの特急も通過となりますが、

能生駅は20年近く、確かに特急停車駅でありました。

 

2015年以降は糸魚川~新潟間に設定された"愛称も無き快速列車"、

通称「糸魚川快速」の停車駅になりますが、これも2017年に廃止となりました。

 

そして時代は流れ、能生騒動から60年が経過した2021年。

えちごトキめき鉄道は新たな観光列車として「急行」を設定します。

しかし、この急行は能生駅で運転停車するという、

60年前の悲劇を思い起こすようなダイヤとされました

むしろ、全線時刻表には通過とだけ掲載され、

能生駅時刻表にも運転停車の旨が書かれないまま、

当日列車内で運転停車を明かされたという点では60年前と真逆といえるでしょう。

 

そう、60年後の運転停車は「真逆」なのです。

 

この運転停車を地元は好意的に受け止めました

運転停車を利用してホーム上では笹寿司の販売を行い、

指定席利用者には炊き立ての釜めしを振る舞う。

これが地元の反応です。

 

言ってしまえばたかが運転停車です。乗降客としてカウントされません

60年前は確かにそれに落胆したんです。

しかし、60年後の評価はまさしく「真逆」でした

乗客と地元の人が明るく触れ合う様子が、そこにはありました。

 

対照的な「運転停車」。皆さんはここから何を思うでしょうか。

 

最後に、この地名の由来を話しておこうと思います。

「能生」。初見で読めますか?

「のう」という変わった地名は何が由来なのでしょう?

 

一説には、真っ直ぐな海岸線を表す「直海(なおうみ)」が徐々に転訛して

「のう」となった、とされています。

他にもアイヌ語説、神話起源説などが提唱されています(諸説あります)。

 

15-4.能生駅周辺の施設・名所

・糸魚川市 能生事務所 / 旧能生駅

2005年まで能生町役場だった建物です。

付近には能生体育館やクスリのアオキなどがあります。

 

しかし、この場所はもう一つ大きな意味を持ちます。

1969年までの能生駅はここにあったのです

「市街地の中心部にあった」という言葉に偽りはないことが分かるでしょう。

 

駅跡地となる当地には、旧筒石駅跡地にあるのと似た石碑に加え、

レール断面、境界標、338キロポストが残されています。

このため、新線切替で駅が移転した、または廃止となった4駅のうち、

最も分かりやすい駅跡になっています。それでも初見では見逃すが…

 

現在の能生駅から徒歩10分です。

 

・能生海水浴場 / 弁天岩

能生駅北東にある海水浴場で、透明度の高い海と遠浅の砂浜が特徴です。

そして海水浴場内からは赤い橋も伸びており、弁天岩に繋がっています。

 

弁天岩はフォッサマグナにかかっており、

岩自体も海底火山の噴火で形成されたものです。

糸魚川ジオパークのジオサイトにもなっています。

 

島の中程には厳島神社があります。

決して潮の満ち引きで有名な神社ではございません

そこ、鳥居の横に偽物のUSB埋めようとしない

 

夏季には付近で「能生ふるさと海上花火大会」が行われます。

大迫力の海上花火で、爆雷がいくつも炸裂します。

 

能生駅から徒歩20分で、最寄りバス停は「能生浜」です。

 

・能生漁港

また出たよ

 

能生の経済の原動力ともいえる施設です。

直江津側から数えて4つ目の漁港です。

なんとクロダイも釣れることがあるようです。

 

県立海洋高等学校も敷地内に栽培漁業臨海実習棟を置いています。

 

セリなどでは多くの人が集まる交流の場。

マリンドリーム能生も近くにあります。

 

能生漁港周辺は平地がほぼなく、海のすぐそばまで山が迫っています。

このせいで一瞬全く別の町に来たかのような感覚に陥ります。

 

能生駅から徒歩31分で、最寄りバス停は「小泊」です。

 

・道の駅 マリンドリーム能生

能生駅北東、能生漁港のさらに直江津寄りにある、国道8号線沿いの道の駅です。

複合商業施設を備えますが、何と言っても目玉は「かにや横丁」。

なんと5つ、いやそれ以上のカニ専門店が一挙に立ち並び、

ここを通ると都会の客引きもかくやという勢いで

おまんカニ買ってかんかね!安くするすけどうだね!

と一斉に呼び込みをされます。

※標準語訳:あなたカニ買っていきませんか!?安くするのでどうですか!?

もちろん、味は一級品です。

 

買ったカニは裏手にある日本海沿いの広場で食べることもできます。できました。

筆者は能生のカニを絶滅させんという勢いで食い散らかしたことがあります

ごちそうさまでした

 

かにや横丁の隣には鮮魚センターがあり、鮮魚や浜焼きも売っています。

道の駅の隅には「越山丸(えつざんまる)」が展示されています。

現役時代は県立海洋高等学校の実習船でした。

 

大型連休などは激しく混雑し、

道の駅前後の道がキロメートル単位で渋滞することもあります

 

なお、道の駅前の一段高くなっている場所に

県道542号線(久比岐自転車歩行者道)が通っていますが、

これがかつての北陸本線でした

能生駅を出た後、ここを通って直江津へ向かっていたのです。

 

能生駅からはやや遠く徒歩41分で、最寄りバス停は「マリンドリーム能生」。

 

・柵口温泉 権現荘

能生駅南東にある温泉施設で、もとは25℃のぬるま湯が出る地でした。

しかし1986年1月に付近で13人が犠牲になる雪崩が発生したのを契機に、

復興のため本格的な掘削が開始されました。

 

権現荘は1988年に閉校した上能生小学校校舎を再利用する形で開業。

以後、増築が繰り返され、現在では校舎は解体されています。

旅館では地元能生の食材を使った豪華な料理が出されます。

 

2017年度から指定管理者による運営となりますが、

2023年6月に2034年末まで営業することを条件に民間譲渡されました。

 

なお、温泉名の読みは「ませぐち」です。

 

能生駅からは徒歩2時間41分と遠いため、バスを使いましょう。

最寄りバス停は「田麦平」です。

 

・シャルマン火打スキー場

能生駅はるか南東にあるスキー場で、能生町の過疎化対策で1998年に開業しました。

標高差は508m、最大傾斜は37度で、非圧雪エリアを多く有します。

 

日本海至近にあるにもかかわらず、妙高エリアから反対側にあるため、

太陽光があまり当たらず融雪も遅め。

そのため5月上旬までの滑走が可能です。

パウダースノーも楽しめるため、知る人ぞ知る穴場になっています。

 

能生駅からは恐ろしく遠く、徒歩4時間13分の地獄ルート。

シーズンは能生駅からシャトルバスが出ているので、こちらを活用しましょう。

 

 

 

 

 

というわけで能生駅の紹介でした。次回は浦本駅です。