どうもどうも、けいです。

 

「高校では何をしていましたか?」という問いに対して、

「地域の魅力を発信する活動をしていました」と答える私。

…ウソじゃないんですが、事実ではあるんですが。

なんかウソを言ってる気分。

 

そんなことから始まったブログシリーズ第13弾。

本日は名立駅です。

 

ではでは、どうぞよろしくお願いします。

 

13-1.名立駅 概要

名立駅は、新潟県上越市にあるえちごトキめき鉄道の駅です。

日本海ひすいラインのみが乗り入れる単独駅となっています。

日本海ひすいライン内では上越市内最後の駅で、

次の筒石駅からは糸魚川市になります。

 

駅構造は2面4線で、新幹線型の構造を持つ珍しい駅となっています。

2本のホームの間に通過線が存在し、

当駅を通過する貨物列車や急行、えちごトキめきリゾート「雪月花」などは

すべて通過線を進行していきます。

ただし、2023年現在は定期旅客列車に限ると名立駅の通過列車はありません。

 

公式にはホーム番号がないので、便宜上ここでは「駅舎側」「反対側」と呼びます

(JR期は駅舎側を1番線、反対側を2番線と案内していました)。

駅舎側が下り直江津方面、反対側が上り能生、糸魚川方面です。

 

接近メロディーの設備があり、駅舎側が「かっこう」新音源、

反対側が「村の鍛冶屋」新音源で設定されています。

反対側ホームは2021年まで踏切警報音でしたが、更新されました

(警報音時代の名残で現在でも反対側ホームの鳴動は遅めです)。

 

なお、駅名が「名が立つ」に通じて縁起がいいことから、

かつては新入社員が当駅の入場券を買い求めていたそうです

今では整理券で代用が効く…のでしょうか。

 

13-2.名立駅 駅設備

名立駅は高架駅の分類で、駅舎はホームより一つ下のフロアにあります。

駅舎とホームは線路の下を通る通路で連絡しています。

 

駅舎の中はベンチや簡易券売機があり、

谷浜駅や有間川駅よりは設備が充実しています。

ただし無人で、ワンマン列車は後ろ乗り前降りとなります。

窓口は例のごとく掲示板に転用されています(2008年までは駅員がいました)。

 

ホームはトンネルとトンネルの間にあり、

直江津方は名立トンネル、糸魚川方は全長10kmを超える頸城トンネルになります。

ホームは220mとられていますが、駅舎側の停車線は頸城トンネルに、

反対側の停車線は名立トンネルに、それぞれかかっている特殊な構造です。

 

また、かつては貨物ホームがあり、

海側に高床ホーム10m、地平ホーム14mが設けられていました。

現在でもここには何本か側線があり、保線車両が停車していることがあります。

 

トイレの設備ですが、改札外に1ヶ所あります

駅舎を出て左手に「便所」と書かれた看板とともに設置されています

 

なお、駅自体が狭隘な場所に建設されたため、

ホームの一部は名立川橋梁と重複しています

急行2号は当駅に運転停車し、名立川の清流と渓谷からの眺めを見せてくれます。

 

当駅付近の津波避難場所も記しておきます。

上越市のハザードマップによると名立駅は浸水想定がありませんが、

津波が名立川を遡上するため、駅の50m北方から既に浸水エリアにかかります

駅北方460mほどの場所にある名立区総合事務所から海側は

どこも1m以上の浸水が想定されているため、居座るのは非常に危険です。

 

津波の到達猶予時間は10分なく

津波警報が出てからでは手遅れになる可能性があります

駅周辺で大きな揺れを感じたら

津波警報を待たず直ちに以下の場所に避難してください

・江野神社境内(31.6m)

・名立中学校(33.2m)

※詳しい場所は上越市のハザードマップをご覧ください(カッコ内は海抜高度)

 

なお、名立駅の浸水想定がないからといって、

津波襲来時に名立駅にとどまっていてはいけません

駅のすぐそこまで浸水想定エリアが広がっている以上、

名立駅まで津波が到達することも考えられます

決して名立駅が安全だとは思わず、さらに山の方へ逃げてください

 

13-3.名立駅 周辺と駅の歴史

名立駅の周辺は上越市名立区ですが、

2005年までは西頸城郡名立町という独立した市町村でした。

 

名立の町には江戸時代から人が住んでいたようで、

おそらく漁業などで生計を立てていたものと思われます。

 

しかしながら、1751年にとある悲劇が名立を襲います。

5月21日午前2時ごろに高田平野西部を震源とする地震が発生(宝暦高田地震)

マグニチュードは7.0~7.4と推定(阪神・淡路大震災でM7.3)されており、

死者は1100人から2000人とされています。

 

この地震で高田城の一帯が壊滅的な被害を受けたのですが、

もう一つ被害が出たのが名立でした。

地震に誘発され、現在の名立小泊付近で大規模な地すべりが発生したのです

 

直江津~糸魚川間の地域は地質学上非常に地すべりが起きやすく、

宝暦高田地震でも随所で土砂災害により北陸道が寸断されたのですが、

名立小泊の地すべりは規模が違いました。

 

名立小泊の海岸段丘が幅約1kmにわたって滑り落ち、

91軒あった集落は3軒を残して海へ流され消滅し、

村民525人のうち、生存者は3割に届かない137人のみでした

犠牲者数は428人ともされており、一瞬にして多くの命を奪った災害だったのです。

 

名立の村はこの災害で立ち行かなくなるほど打撃を受け、

参勤交代の宿役などは辞退せざるを得ませんでした。

どころか幕府へ資金援助の要請をしたり、

高田の領主に村を離れた者を呼び戻すよう依頼したりと散々だったのです。

結局、小泊の地区が元の規模に戻ったのは、災害から100年以上経った後でした

この災害は後世「名立崩れ」と呼ばれることとなります。

 

当時は名立崩れの被害状況は詳細に分からなかったのですが、

村の庄屋(いわゆる村長)であった池垣右八が梶屋敷(現:糸魚川市)への出張で

名立崩れによる難を逃れており、

当時の高田代官に宛てた被害報告書を書いていました。

 

「乍恐以書附御注進申上候(恐れながら書付けをもってご注進申し上げます)」

から始まるその書物の下書きなど関係文書が昭和の時代に入って発見されたことで、

名立崩れの被害が克明に浮かび上がってきたのです。

 

上越地域でも実際にこのような地震災害が起きることの裏付けです。

 

名立の町は戦後にも悲惨な事故が起きています。

1949年に国籍不明の機雷(船用の地雷のようなもの)が漂着し、

巡査が沖に流そうとしたところ突如爆発

見物に来ていた人々も巻き込まれ、これまた63人が亡くなる事故となりました。

うち、未成年者の犠牲者数は59人にのぼります。

 

おぞましい表現が含まれることから、これ以上のことはここに書けないので、

詳しく知りたい方はくれぐれも自己責任でWikipediaの記事をご覧ください。

 

そんな名立の町ですが、言うまでもなく普段は平和な地域です

訪れる際はお気軽にどうぞ。こんな話をしてしまった以上私にも責任がありますが…

 

さて、名立駅の歴史に話を変えましょう。

のちに北陸本線となる米原~直江津間のうち、

富山~直江津間は鉄道敷設法の第一期線から外れていました。

 

※第一期線

1892年成立・公布となった鉄道敷設法において指定された

全国に敷設すべき鉄道路線33区間のうち、

特に重要で今後12年以内に敷設するべしとした9区間のこと。

 

1906年にようやく富山~直江津間の着工が決定し、

富山駅と直江津駅の両端から工事が開始されました。

1911年には名立~直江津間が信越本線支線として開業し、

名立駅も終着駅として設置されました。

 

駅ができた際の名立の町はたいへんなお祭り騒ぎだったそうで、

名立尋常高等小学校では祝賀会が行われ、夜はちょうちん行列も出たようです。

 

路線自体は1912年に糸魚川まで延伸され、

1913年に青海~糸魚川間が開通して北陸本線が全通、

名立駅は北陸本線の所属となりました。

 

ところで、当時の名立駅は現在位置とは違い、

現在の国道8号線名立谷浜IC入口交差点付近にありました

地上駅で島式ホームを備えており、いくつか側線もあったようです。

 

旅客流動としては直江津や高田へ鮮魚を売りに出る行商人の利用が多く、

そうでなくても直江津、高田方面へ行く人が多かったようです。

名立町は西頸城郡(糸魚川一帯の群)に属してはいたのですが、

生活圏は現在の上越市方面との繋がりが強く

これが2005年に名立町が上越市へ編入された理由とも言えましょう。

なお、2000年国勢調査によると、名立町から上越市への通勤率は25.2%です。

 

貨物としては鮮魚のほか、炭などの発送もあり、

またお灸に使う「もぐさ」の生産も盛んであったことから、

原料のヨモギを貨物列車で搬入していたようです

(現在の名立駅前にも「もぐさ」の工場らしき建物があります)。

 

最盛期は1日26両もの貨車を送り出していたようで、

決して寂しい漁村ではありませんでした。

かつての日本が第一次産業でも食っていけた時代のお話。

 

しかし一方で、その物流の要となる北陸本線はボロボロ。

上記したように直江津と糸魚川の間にある地域は地すべり多発地帯で、

北陸本線は土砂災害にやられて幾度となく運休を発生させていました

 

戦後になって北陸本線自体が

日本海縦貫線を構成する重要幹線と見做されるようになると、

列車の本数や輸送量も増加。

この区間の貨物列車は列車本数全体の6割以上ともいわれましたし、

貨物列車を東海道経由にしたり、

泣く泣くトラックに切り替えたりするケースも頻発することとなります

(トラックに切り替えた貨物は4万トンともされます)。

 

このことから国鉄は北陸本線の輸送改善に手を入れ、

柳ヶ瀬や杉津といった難所を長大トンネルで縦貫し、

複線電化も行って輸送量の増大に対応できるよう工事を始めます。

 

市振から東、直江津方面においても輸送改善は待ったなしの主題であり、

現在線を線増したり、内陸部を長大トンネルで貫いたりといった方法が

いくつも国鉄内部で模索されました。

 

結果として現在線の線増は諦めることとなりましたが、

最終的に3つの案が検討されることになります。

  1. 能生~直江津間を新トンネルで通過、筒石~郷津の5駅は放棄
  2. 能生~有間川間と谷浜~直江津間を短絡、筒石、名立、郷津の3駅は放棄
  3. 能生~名立~有間川間と谷浜~直江津間を短絡、筒石、郷津の2駅は放棄

※国鉄内ではそれぞれA案、B案、C案。以下この記事でもこちらに準拠

なお、どの案も浦本~能生間はトンネルで短絡するとされました。

 

以上の案の中から、B案が投資額・年間経費の面で有利とされました

 

しかし、これに強烈に反対したのが地元で、

地質調査が相当内陸まで入ったことに訝しげな視線を向け始めたのが発端です。

最終的に「国鉄は全長24kmの世界最長トンネルを掘るつもりらしい

という噂が流れ(A案の能生~直江津間短絡の計画だろう)、

1964年には「浦本・直江津間長大トンネル反対対策会議」が発足するに至ります。

さらには能生町、名立町で反対期成同盟会も結成されました。

 

反対理由としては以下のものが挙げられました。

以下はWikipedia上に掲載されていた記事の引用になります。

 

現在線が廃止になり長大トンネルになれば

  1. 沿線の約3,000人の通勤者をはじめ、通学生、一般乗客がバス輸送にたよらなければならないが、これでは降雪時の通勤、通学が不能になる。
  2. 能生、小泊、筒石、名立の三漁港の鮮魚輸送が豊漁の際出荷できなくなる。
  3. 現在線を中心にした商工業がやっていけない。
  4. 生産される米、野菜、肥料などは輸送費が高くなり貧農地帯の生活が一層苦しくなる。
  5. 急病人の輸送や通院に困る。
  6. 現在線がなくなれば、地すべりの防災はそのままになり災害がさらにふえる。
  7. 谷浜、能生などの海水浴場が重大な打撃をうける。

— 『線増工事史』による

※…Wikipedia上では原文ママとされる。筆者も手を加えず。

 

1964年3月には能生町、名立町、糸魚川市が一斉に複線化への反対決議を行います

一方の直江津市(現:上越市)はあくまで有間川、谷浜、郷津の3駅の存続を目指して

この動きに同調するにとどまり

新潟県上越支庁も複線電化の遅れをおそれ、

上越全体の課題とすることに反対します。

 

しかし住民は諦めておらず、1964年5月には糸魚川から直江津までの

複線電化反対デモ行進を敢行

筒石と小泊では漁民全員が参加するというとんでもないことになります。

 

国鉄も黙ってはおらず、近いうちに住民説明会を開くとしたほか、

新潟県は現在線をローカル線として残す案も提示しました。

が、地元の熱はそれでも収まらず、

能生町と名立町の反対期成同盟会は連合体となるに至ります

 

64年6月には名立で住民説明会が開かれ、

現在線の複線化が困難であること、駅を移転すること、

抜き打ち的な着工はしないことを約束しました。

 

当時、名立駅は糸魚川~直江津間の途中駅では旅客数3位貨物数2位であり、

国鉄としても名立駅を無条件で捨てることはできなかったのでしょう。

また、B案となるとトンネル内への信号場設置も関係するため、

技術的な面での調整が難しかったこともありました。

 

のちに新潟県から地元へC案の説明がありました。

このC案は、

  • 能生駅と名立駅は山側移設で存続
  • 放棄されるのは筒石、郷津の2駅のみ

という利点があったのです。

 

64年7月9日、ついに名立町はC案を呑むことに賛成し、

複線電化に肯定的な態度を示しました。

町民大会では以下の理由が挙げられています。

以下もまたWikipedia上に掲載されていた記事の引用になります。

  1. 長大トンネル案では筒石以北の5駅が廃止される予定のところ、筒石、郷津2駅となったことは前進である。
  2. 現在線の確保はどうしても無理だと国鉄が言っている。
  3. 現在線をローカル線として残しても災害などでストップしたり、赤字を理由に将来廃線となる運命のみこみが予想される。
  4. 現在駅がなくなっても新線に新しい駅が残り、機構も現在通りの条件なら多少の不便はあっても承認すべきである。

— 『線増工事史』による

※…能生~直江津短絡のA案を指す。

なお、放棄予定駅をすべてトンネルに移設する計画もあった。

 

補足として、現在線(旧線)を残した例に、

同じく北陸本線の木ノ本~敦賀間があります。

柳ヶ瀬線として北陸本線複線電化後も残ったのですが、

営業係数が極端に高く、労力に不釣り合いだとなって1964年に廃止されています

 

この廃止日が5月10日であり、時系列的に7月の名立町妥協の前となるため、

名立町も柳ヶ瀬線の例から現在線維持が難しいと分かっていたのかもしれません。

 

こうして名立駅は複線電化後も存続することとなり、

現在位置に移転して営業を続けました。

 

しかしながら、名立駅の移転による「不便さ」は如実に表れてしまいます。

1965年と1970年の名立駅における貨物取扱量を見ると、

たった5年で4分の1に減少していたのです。

そして複線電化6年後の1975年には名立駅の貨物取扱が廃止となりました。

旅客数も、1965年から1970年の間に200人もの減少を見せています。

 

複線電化でかえって不便になったのではないか。

しかしその複線電化も北陸本線全体にとってはプラスかもしれない。

そして名立駅の移転も苦肉の策であることを考えると…

いろいろここから考えられることがありそうですね。

 

13-4.名立駅周辺の施設・名所

・道の駅 うみてらす名立

国道8号線沿いの道の駅です。

名の通り日本海のすぐそばに設置されており、

ホテルや飲食店、温泉なども併設しています。

そして筆者の北陸方面への出撃拠点でもある

 

様々な施設を併設しており便利な道の駅ですが、

その機能性から連休などは激しく混雑します

 

海岸部からは日本海が一望でき、運が良ければ雄大な日没も見られます

当然のごとく、天気がよければ佐渡や米山、弥彦山、能登半島も見られます。

Google mapには日没時に撮影されたストリートビューがあるので、

気になる方は一度ご覧ください。

 

敷地内には風力発電機もあったのですが、

2022年に破損が発覚し、2023年には撤去となってしまいました。

上越市内の風力発電機は近年撤去が相次いでおり、

うみてらす名立の風力発電機は上越市内で最後のものだったそうです

 

昔は直江津の北陸側にある山にいくつも風車が立っていて

日によっては元気にくるくる回っていたのですが…

幼き筆者はそれを見て「北陸」を実感したものです。

 

名立駅から徒歩19分で、最寄りバス停は「うみてらす名立前」です。

 

・名立漁港

国道8号線沿い、うみてらす名立の隣にある漁港です。

名立の経済の原動力でもあります。

 

日本海ひすいラインでは、有間川から浦本までほぼ1駅ごとに漁港が並びますが、

この漁港は直江津側から見て2つ目の漁港です。

さあ浦本まで一体いくつ漁港が出てくるのでしょうか

 

強固な防波堤に守られた港湾内は比較的穏やかで、

荒れることが多い日本海ですが湾内なら安定して釣りができるそうです。

時期によっては大アジが回遊することもあるそうで…

 

かつては名立漁港の近くに名立駅があったこともあり、

名立駅から鮮魚の発送が盛んに行われていました。

また、行商人が直江津や高田に鮮魚を売りに出ていたそうです。

直江津は海あるだろって?あそこは貨物港で埋まってるから魚獲ってないんだろう

 

なお、漁港の東防波堤は1751年の名立崩れで流出した土砂の上にあります。

 

名立駅から徒歩19分で、最寄りバス停は「中才」です。

 

・シーサイドパーク名立

崖の上にある公園で、ボブスレーやローラースライダーを備えています

他にも展望台やアスレチック、バーベキュー広場などもあり、

子供から大人まで楽しめる施設になっています。

 

平日や冬季、雨天時は休園となるようで、

なかなか営業時間がシビアになっています。

そのうえ現在は一部遊具の使用が中止となっているそうで…実に残念です

 

車で来ることを想定している施設のようで、駅、バス停ともに遠いです

Google mapに聞くと奇想天外なルートで駅から徒歩55分とか出してきましたが…

正直この辺クマとかよく出るから山道は勧めたくないんだよなぁ…

 

最寄りバス停は「名立車庫前」ですがここからも徒歩56分かかります。

 

 

 

 

 

というわけで名立駅の紹介でした。次回は筒石駅になります。