どうもどうも、けいです。

 

「高校では何をしていましたか?」という問いに対して、

「地域の魅力を発信する活動をしていました」と答える私。

…ウソじゃないんですが、事実ではあるんですが。

なんかウソを言ってる気分。

 

そんなことから始まったブログシリーズ第4弾。

本日は南高田駅です。

 

ではでは、どうぞよろしくお願いします。

 

4-1.南高田駅 概要

南高田駅は、新潟県上越市にあるえちごトキめき鉄道の駅です。

妙高はねうまラインのみが乗り入れる単独駅となっています。

 

駅構造は1面1線で、待避線や留置線などはありません。

無人駅ですので、ワンマン列車では通常後ろ乗り前降り方式が行われます

が、特に学生あたりにしばしば無視されます

 

後述する高校の存在から特に朝夕は混雑しますが、

特急「しらゆき」は全列車が通過します(413系快速は停車です)。

 

4-2.南高田駅 駅設備

なんのこっちゃもない地上駅です。

待合室内には簡易券売機やベンチ、ごみ箱があるくらい。

空調などはないので夏はクソ暑く、冬はクソ寒ブくなります。

雨風をしのげる分まだマシなのだろうか…

 

駅舎には待合室とトイレの他にもう一つ別の部屋があります。

が、立ち入り禁止の模様。何に使っているのでしょうか。

待合室側に窓があるのも気になるのですが…

 

トイレですが、待合室からホームに出て左手にあります

そして度々故障しているようです

 

また、駅舎以外にホーム直結の階段があり、そちらもしばしば使われます。

 

ホームは6両までの対応で、高田方すぐの場所に中田原練兵場踏切があります。

最近この踏切に歩道を追設するため、南高田駅のホームは若干改築が行われました

(高田方を少し切って、切った分を上越妙高方に付け足した)。

 

4-3.南高田駅 周辺と駅の歴史

南高田の周辺は高田の街の外れであり、歴史の流れは高田のそれと同じです。

しかし何もないかと言われるとそうでもなく、

むしろとある分野においては非常に重要な場所と見做されています。

 

その分野というのが、「スキー」になります。

日本スキー発祥の地」が南高田駅の西方、金谷山とされているのです。

 

日本にスキーを伝えたのが、オーストリア=ハンガリー二重帝国

(筆者は世界史好きなのでこの国は「二重帝国」と呼びます)の軍人、

テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐でした

(その後中佐に昇格したので、北海道などでは「レルヒ中佐」と呼ばれますが…

ここでは「少佐」で呼びます)。

 

レルヒ少佐は1910年に交換将校として来日。

この5年前の1905年には日本がロシアに勝利しており(日露戦争)、

ロシアに打ち勝った日本陸軍の研究のために二重帝国からやってきました。

 

一方の日本は、1902年に八甲田山で軍隊の雪中行軍中に

遭難事故を起こしたという背景から、レルヒ少佐のスキー技術に注目。

実は、レルヒ少佐はアルペンスキーの創始者

マティアス・ツダルスキーの弟子なのでした。

 

レルヒ少佐はスキー技術の伝授を受諾し、1911年に金谷山で

日本初となる本格的なスキー講習を行いました

 

この時レルヒ少佐が伝授したのは、スキーのストックを1本だけ使う方式でした。

少佐は2本杖方式もできたのですが、高田の地形から1本杖を選んだといいます。

現在、1本杖方式は主流ではありませんが、

金谷山にあるレルヒ少佐の銅像は変わらず1本だけストックを持ち続けており、

現在でも金谷山で1本杖で滑る体験会を行っています。ちょっと新鮮で楽しそう

 

また、歩兵第58連隊の営庭(言うまでもないですがこれも高田)にて、

1911年1月12日にレルヒ少佐は日本のスキー専修員にスキー技術を伝授。

これも日本でのスキー普及の第一歩と認められており、

現代で1月12日は「スキーの日」となっています

 

しかしながら、この「スキー発祥」について、

妙な違和感を抱く人も少なくありません

いったい何がおかしいのでしょうか?

以下、これを提言した上越タウンジャーナルの記事をもとに記します。

 

皆さんは1543年に何があったと習ったでしょうか。

そう、「種子島への鉄砲伝来」です。

ここでは「種子島は日本鉄砲発祥の地」とは習っていないはずです。

それもそのはずで、別に種子島で鉄砲が初めて作られたわけではないからです。

 

金谷山も同じことで、本来は「日本スキー伝来の地」とするべきところ、

なぜか「発祥の地」とされてしまったのです。

コトバンクによれば、「発祥」について以下のように書いてあります。

 

② 物事が初めてそこに起こること。物事の起こり。

 

高田でスキーが編み出されたのであればおかしなことはないのですが、

高田ではスキー技術を「教えた」のみです

とすれば「伝来」とする方が日本語的には自然だ、という主張です。

 

また、日本人が初めて「スキー」を目にしたのは、高田が初めてではありません

レルヒ少佐が高田でスキー講習を行った1911年よりも前に、

「スキー」を輸入した日本人もいましたし、

富士山で外国人がスキーで滑ったこともあります。よくやろうと思ったものだ

 

とどめに高田講習の3年前である1908年、

スイス人のハンス・コラーが札幌でスキー講義を行った記録があります

この時は学生にスキーを履かせ、手綱で引っ張ったといいます。

このことから、高田で日本初のスキー講習が行われたわけでもないのです

事実、大正時代末期には札幌と高田の間で発祥地論争が起きています

 

しかしながら、立つ石碑に刻まれる文字は揃いも揃って「発祥」。

もはや誤りを正すこともできず、「発祥の地」として広まってしまったのです。

 

…と、上越タウンジャーナルを出典として書いてみましたが、

高田が日本でスキーが普及するきっかけとなった事実であることは確かです

その事実は認めて評価するべきことでしょう。

 

※…結局この発祥地論争は、札幌でスキー講習が行われた事実を認めつつ、

高田の講習が日本にスキーを広める組織的なきっかけを作ったとして、

高田が発祥地との結論をもって終結しています。

 

余談ですが、上越に来ると特産品のパッケージに、

黄色い外套と帽子を被り髭をたくわえたキャラが描かれているのを

しばしば目にすると思います。

この方こそが、二重帝国のレルヒ少佐をもとにしたゆるキャラ「レルヒさん」です。

公式設定では身長2mあるようです

 

そんな金谷山を中心とする南高田ですが、1886年に鉄道が通りました。

しかしながら開業当初は駅はなく、

南高田駅ができたのは結局直江津~関山開業から75年経過した1961年でした

南高田駅は駅の移転を除くと、妙高はねうまラインで最も新しい駅となります。

駅の移転まで入れてしまうと上越妙高に持ってかれます

 

両隣の高田駅、脇野田駅との距離が1.7~2.0km程度しかなく、

蒸機牽引列車の停車が非常に厳しかったのか、気動車のみの停車となったようです。

 

4-4.南高田駅周辺の施設・名所

・小竹製菓

上越市内では有名な食品製造会社です。

コッペパンにクリームを挟んだ菓子パン「サンドパン」をはじめとして、

様々な食品を製造しています。

 

サンドパンや、中に笹団子を入れた「笹だんごパン」は

市内のコンビニやスーパーマーケットで売っています。

笹だんごパンは新しい新潟名物になると目されており、

7月29日には山寺宏一氏がX(旧Twitter)上で

笹だんごパンの投稿を画像付きで行ったところ、

執筆時点で2.9万件のいいね、2852件のリポストを得ており、

有名人を通して徐々に全国に広まりつつあります

人気ゆえ若干笹だんごパンの入手が難しくなっているのは秘密

 

本店は南高田駅から徒歩3分程度。

ちょっとした隙間時間に訪れてみてはいかがでしょうか?

 

・ファミリーマート 上越南新町店

…!?

なんでいきなりコンビニの紹介を…と思ったあなた、間違っておりません。

しかしながらここで取り上げるほど特徴的なのです。

 

上越3市(上越市、妙高市、糸魚川市)には当然コンビニは多数存在しますが、

そのほとんどがセブンイレブンかローソンのどちらか

ファミリーマートの数は非常に少なく、その数なんと2軒

そのうちの1店舗が南高田駅近くにあります(もう1店舗は国道253号沿い)。

 

ファミリーマートで何かキャンペーンをやるとなったら大変で、

ここか五貫野しかないわけですから…あとはお察しください

 

このせいで、上越でのファミチキの入手は非常に難しくなっています。

 

南高田駅から徒歩6分です。

 

・髙橋孫左衛門商店

江戸時代から続く由緒正しい飴屋で、日本一古い飴屋ともいわれます。

1625年に高田城下のこの場所に飴屋を開いたとされ、

店主は代々「孫左衛門」を襲名します(現在は14代目だそうです)。

1603年が江戸幕府成立ですから、

江戸時代のかなり初期から飴屋をやっていることが分かります。

 

江戸時代の戯作者、絵師である十返舎一九や、

かの有名な夏目漱石も粟飴を知っていたとされます。

十返舎一九は『方言修行金草鞋』で粟飴を「気のくすり飴」と呼び、

この飴を食べれば濡れ手に粟のごとく福運がつき身代が飴のように伸びる

と記して絶賛しています。

漱石も、主治医・森成麟造に1913年に送った手紙で

笹飴は私はたつた一つしか食べませんあとはみんな小供が食べてしまひました。

さうして笹を座敷中に散らばしていやはや大変な有様です」と書いている他、

『坊っちゃん』でも「越後の笹飴」とあります。

 

※…言うまでもないとは思いますが、現代仮名遣いに直せば、

「笹飴は私はたった一つしか食べません。

あとはみんな子どもが食べてしまいました。

そうして笹を座敷中に散らばしていやはや大変な有様です。」となります。

 

皇室との関係も深く、1878年の明治天皇による北陸巡幸の際、

明治天皇は特に翁飴をいたく気に入ったとされ、

自ら買い上げて皇后、皇太后への土産としたとされています

これ以降粟飴は皇室にも馴染み深い菓子となり、

昭和天皇が最後の病床で「越後の水飴」を所望された他、

上皇陛下も皇太子時代に購入されているようです。

 

ドナルド・キーンは『明治天皇』にてこう書いています。

(明治)天皇は高田の名産である翁飴、水飴等を買い上げ、

長野産の菓子と共に皇后、皇太后に送った。/

この天皇の振舞いは土地の人々を喜ばせたに違いない。

飴は貢物としてもらったのでなく、天皇が自ら買い求めたものだった。

ヨーロッパの君主であれば、考えられないことだった。

 

1904年には、日本を代表する菓子として、

粟飴がセントルイス万博に出品されています。

 

髙橋孫左衛門商店は南高田駅から徒歩10分で、最寄りバス停は「南新町入口」です。

 

・金谷山

南高田駅西方にある標高145mの小さな山で、

1911年にオーストリア=ハンガリー二重帝国のレルヒ少佐が

日本初の本格的なスキー講習をしたことで有名です。

 

山にはスキー場があり、グリーンシーズンは公園として開放されます。

ボブスレーなどもあり、なかなか楽しめる場所です。

暴走して吹っ飛んでも責任は負いません

 

また、1本杖のスキー体験などをしばしばやっており、

毎年2月には「レルヒ祭」も行われます。

肝心のスキー場は標高が低いせいで積雪が少なく、

営業日は妙高のスキー場に比べると短めです…

 

南高田駅からは徒歩32分、最寄りバス停は「ヨーデル金谷前」です。

バス停からでもある程度は歩きますが…

 

・高等学校群

高田駅周辺と同じように、南高田駅周辺にも高等学校が多く存在します。

高田商業高校が最寄りになる他、高田農業高校、高田高校の生徒も利用します。

朝夕は非常に混雑し、特に朝のラッシュ時は

狭いホームが学生で埋め尽くされるというとんでもない光景を見ることができます。

え?ホームが人で埋め尽くされることなんか都会では珍しくない?知らんな

 

夕方の帰宅時間帯は部活動などで生徒は分散しますが、

部活動がない日は一斉に生徒が殺到するため、

2両編成のワンマン乗降では乗降に手間取って分単位の遅れが発生することもザラ。

流石のET127系も2ヶ所しかドアが開かないと遅れるようです。

後ろにまだ人がいることを考えずに

乗ってすぐスマホを見て立ち止まる生徒のなんと多いことか

 

 

 

 

 

というわけで南高田駅の紹介でした。

次回は上越妙高駅です。