冒頭に…
みんな本当にごめんなさい。
どうもこの国の先祖は間違ってしまったみたいです。
その時、その時代に何が正しかったのかわかりません。でも今の正義と照らし合わせた時、今を生きる自分からして、正しいと言える判断ではなかったと思う。
だから、本当に申し訳なかったと思う。
本当にごめんなさい。

でも同時にここで表明したい。
自分以後の世代に二度と、先の大戦での自国の行いについて、謝罪はさせない。
もう彼らは関係ない。平和な世に生まれ、その中で育つことを許された彼らが、

なぜ詫びる必要があるのか?
誰に対して詫びるべきなのか?

回答があるならば明確にしてもらいたい。
世界中が何かしら過去に対して詫びながら生きることを望むのか?
そうであるべきではない。
知らなくてはならない。
何が正しくて、何が起きてはならないのか。
でもそれは謝罪とは別の次元にある。
知らなくてはならない。
先人がどれほどまでの罪悪感の中で、どれほどの倫理的、物理的、道義的、経済的な謝罪を繰り返して来たのかを。
現在、謝罪を要求するばかりの国家が、我々の「謝罪」という名の金銭によって経済を成り立たせてきたのかを。
先人がどれほどの罪悪感の中で人生を終えていったのかを。
どれほど我々には無関係で、そして望まない世界の話であるのかを。

無関係とすることは無責任であるのかもしれない。
自国を他国の防衛圏上に置かれるというのはそういうことなのかもしれない。
彼らは日本のために血を流すことがあるが、日本はそうしないのか?
正論だ。

ただ、正論に反しても、そうするべきなのがまさに敗戦国の責任であり、敗戦国のあるべき姿だと自分は考える。
理屈は通らないが、しない。

集団自衛権非行使はそういったある意味では無責任の、またある意味では果たすべき責任の表明である。

まとまらない、まとまるわけもないが、願うのは娘の、妻の幸せな人生だけ。
自分も含め、笑って生きていきたいという願いだけ。

頼むよ、偉い人。



公表された談話の評価ではない、それぞれの談話を発表しよう。
さて、これからどうなるか。
とりあえず『大阪』は守られた。

あるものがないものになることの空虚さを、ひとまず誰も感じなくてすみます。
なくなるのではなく、正しく変わっていくことを期待しましょう。
なぜか…本当になぜか毎週見てる

キスマイBUSAIKU…

感じることも毎週いっしょ。








立ちはだかる顔面の壁

世の中甘くない…