《命》の実感 | ギャンブル依存症を自覚したボクが書く日記

《命》の実感

今年の正月――
実家に帰ると、認知症の祖母が来ていました。
母方の祖母で、ずっと、母親の弟が引き取って暮らしていました。
それが数年前から認知症が進行し、
施設を探したのですが、進行しすぎていたために、
完全介護が不可能とされ、
母親と母親の弟、
さらに毎日ではないものの施設の3ヶ所で
面倒を見ることになった、とのことでした。

盆と暮れ、ともすれば
暮れにしか帰省しないものですから、
実家で何が起こっているか、ほとんど知りません。

ボクが幼い頃に暮らしていた家は、
祖母が住んでいた家に近く、
よく行き来していまして、
久しぶりに祖母の姿を見た気がしました。

祖母はすでに、自分で歩くことすらままならず、
トイレに行く時でもボクや母親が手を貸す、という状況。
そして、よく言われることですが・・
すごく小さくなっていました。

母親ももう結構な歳なので、
祖母をベッドから立たせ、トイレまで連れて行くのは
ボクの役目。
抱きかかえるようにカラダを抱え、
ベッドからトイレまでの数mの廊下を歩く――
正直、緊張もしましたし、
ちょっとでも乱暴に扱うと、
折れそうなほどの細いカラダに、
おそるおそる・・という感じで支えていました。

それでも――
そこには、確かに体温があり、
脈づいており、
全身は拍動していました。
それは、確かに《命》でした。

それに触れた瞬間、
ボクは、これを落としちゃいけない、と確かに思ったし、
ヘンな話かもしれないけれど、
少しでも長く触れていたいと感じました。

《命の実感》――

それは、そういったものだったのかもしれません。
その後、実家を後にし、東京に戻ってきてからも
それらの感触は、ボクのココロに確かに残っており、
小さな小さな『何か』を残しています。
その正体が何なのか、まだ見えてはいないのですが、
おそらくは、それが《命》に触れたという証なのでしょう。

何だか、まとまりもオチもない独り言ですが、
すこぅしずつ、このポワッとした感触に、
アプローチしていきたいな、と・・
そう考えています。

最後に・・
トイレに入った祖母が、トイレで転ばないよう
ボクが一緒にトイレの中で見ていると、
決して用を足すことはありませんでした(笑)
女性としての恥じらいなのでしょうね。
男性、女性の性って、
最後まで、消えないものなのだなぁ、と
ヘンなことに感じ入りました(笑)