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shin-1さんの日記

○葛原しげるのふるさとを訪ねる

 広島県福山市で開かれた広島県社会教育研究大会に招かれたので、事務局の言うがまま昨日から福山市に入り、事務局の手配したウエルサンピア福山という厚生年金健康福祉センターへ泊まりました。数日前に尾道市因島大浜公民館へ出かけたばかりでのしまなみ海道なので、知ったかぶりで走りましたが、二日目の寒波で広島県側の山並みには白い雪が積もり、うって変わった景色に多少驚きながら夕方6時ごろ到着し、あいにくの雨なので散歩することも出来ず、ホテルのレストランで簡単な夕食を取り、やってきた事務局の方と明くる日の簡単な打ち合わせを終え、久しぶりに何するでもなくホテルでのんびりさせてもらいました。ホテルの部屋の照明は何となく薄暗く、本を一冊持参していたのですが、目が疲れて早々に止め、テレビを見る事にしました。どこのチャンネルを回して見ても肌に合わないバラエティ番組ばかりで、よくもまあ毎日こんな番組だけで国民は飽きないなあと思いつつ、ニュース番組に切り替えました。しかしここでも世界中で起こっている株安、国会の自民党と民主党のガソリン税の揉め事ばかりで、ヘキヘキしながらまた本を読むことになったのです。


(宿泊したウエルサンピア福山)

 事務局から送られてきた資料を見ていると、ふと福山の平井悦夫さんのことを思い出しました。彼は私に広島向島に住む半田さんが喋った講演集「ハガキは嬉しい活力素」という本をくれた方で、私が何年も毎日三枚のハガキを書く事を日課にして過ごすきっかけを作ってくれた張本人なのです。喜び堂のときめ木タイムスというハガキ文を毎月贈ってくれる方なのです。事務局の方の話だと平井さんに「若松さんが来る」ということをはなしたそうなのですが、あいにく仕事の都合がつかないとのことでした。

 そういえば平井さんに連れられてもう二十年も前、「夕日」の作詞で有名な葛原しげるのふるさとへ連れて行ってもらったことも思い出しました。「そうだ明日は講演会は午後なので午前中葛原しげるの生家を訪ねよう」と思いました。

 朝は5時過ぎに目が覚めましたが何をするでもなく本を読んで7時まで過ごし、7時半からレストランで食事をしました。何人かのお客さんは若い人は洋食、私のような年配は和食と食べるものがはっきり分かれているようで、面白いなあと思いました。ここの白いご飯は最近食べたご飯の中ではぴか一で、美味しいと思って食べました。私だけではなくあちらこちらで「ご飯のお代わり」が何人もありました。

 9時過ぎにチェックインを済ませ直ぐ横にあるバラ公園の見学に出かけました。厳冬の今の時期はバラの花も休眠状態で見る影もなくさびしく雨に打たれていましたが、それでもその素晴らしい開花の時期を思いながら雨に濡れた公園をのんびり散策しました。


(福山のバラ公園)

 その後車に戻り神辺文化センターをカーナビに入力しいよいよ出発です。センターまでは30分ほどで間違うことなく性格に到着しました。事務所に行って職員の方に道順を聞きましたが、差し出されたマップでは中々込み入って分らず、書き込んでもらった福山通運の倉庫を頼りに見当をつけて走りました。私の感は大体あっていてそれなりの道を進みそれなりに間違うこともなく生家へたどり着くことが出来ました。生家の前で車を止めそこら辺を散策したり、ボタンを押すと「ぎんぎんぎらぎら」の童謡が放送されびっくりしました。


(葛原しげるの生家)

(生家前に建つ夕日の歌碑)

(ボタンを押すと夕日の歌が聞こえます)

 私は車に入ってハーモニカを取り出し葛原しげるの歌碑の前でこともあろうにハーモニカを吹いたのです。「夕日」と「赤トンボ」と「夕やけこやけ」の3曲を吹きました。人がいたらこんなこと恥かしくて出来なかったのでしょうが、あいにく雨が降って人影もなく幸いだと思っていたら、なんとそこへタクシーが一台来たではありませんか。時既に遅しでした。タクシーから降りてきた方は見ず知らずながら私のハーモニカの音色に拍手を送ってくれました。嬉しいやら恥かしいやらで弱りました。


(歌碑の前でハーモニカを吹く私)

 それでも夕日によるまちづくりを二十年にわたってやってきた私の、葛原しげるへのせめてもの供養だと思ってやったことで、少し肩の荷が降りたような気持ちになりました。というのも、私が手掛けたシーサイド公園の一角に童謡の小路というの造っていますが、7基あるひとつが葛原しげるの「夕日」なのです。既に他界している葛原しげるに何の相談もなく造ったことへの謝罪の意味も込めてのハーモニカ演奏だったのです。

  「葛原の 生家の前で 一人吹く ハーモニカの音 無住家響く」

  「句碑建てた 詫びのつもりが 客一人 タクシー降りて 拍手送りて」

  「住む人も なくひっそりと 時刻む 屋根のしかかる 青竹一本」

  「葛原は 夕日を思い 歌作る 同じ夕日で 私は観光」

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○限界集落

 昨晩は「限界集落」についての勉強会が伊予市であり、仲間8人を誘って出かけました。この手の勉強会は得てして役所か役所に務めている人が仕掛けるものですが、今回は伊予市の商店主として中心市街地の活性化に積極的に取り組んでいる人の音頭で始めました。彼は伊予市の中心市街地の空洞化も私たちの住む田舎の少子高齢化、過疎化も元をただせば同じ悩みだと言うのです。私もそうだと思い合併以来伊予市の人と余り突っ込んでまちづくりへのかかわりをしていないこともあって、誘いに乗りました。伊予市といいながら、旧伊予市と双海町や中山町のような中山間地域とでは抱えている問題は全く次元が違うのですが、人口問題からえぐってみると意外な共通点が浮かび上がってくるようです。

 私は「限界集落」の問題の勉強会に誰を誘えばいいのか迷いました。田舎にどっぷり浸かり過ぎる人にこの問題を話すと、やたら行政批判になってしまいます。逆に田舎を愛せない人に話すと「それは行政のやること」として一蹴されてしまうのです。「最初から行政批判をしない人」「自分たちにでも何か出来ることがあるかもしれないと思う人」をリストアップして9人の人に手紙を出したのです。その中の一人は年齢を理由に固辞の電話がありましたが、残る8人は全員参加をしてくれました。10人ほどの参加を見込んでいた中山町はお二人の参加だったため拍子抜けがしましたが、私の役目は一応果たすことが出来たようです。



 さて、呼びかけ人の商店主は資料提出を渋る市役所から貰った基礎データーを基に、様々な資料をパソコン加工して当日に間に合わせてくれました。私は数日前事前にこの資料を商店主の店に行ってあらかじめいただいて意見を戦わせていたので、彼の約1時間にわたる詳しい説明は納得しながら聞きましたが、初めて参加した人たちはその資料の緻密さや厳しい実態に驚きの声を上げていました。

 限界集落とは65歳以上の人口比率が50パーセントを超えた集落、準限界集落とは55歳以上の人口比率が50パーセントを超えた集落、存続集落とは55歳未満の人口比率が50パーセント未満と位置づけた、これらの意味さえも理解し難い人たちに、これらのデーターはどう写りどう考えたことでしょう。

 最初のことでもあり参加した人全員からショートコメントのような形で意見を出してもらい、とりあえず次の勉強会を4月に中山町で開く事を決め散会しました。




 私たちの双海町グループはその後意見交換会と称して近くの飲み屋に繰り出し旧交を温めました。乾杯をするようになってわが家から電話がかかり、親父が体調不良を訴えているようなので直ぐに帰るように言われました。私が仕掛けた会議なので後ろ髪を引かれるような思いで店を後にしました。幸い下灘診療所の先生が往診に駆けつけてくれて大事には至りませんでしたが、医療という限界集落を巡る問題を目の当たりにしてハッとするような出来事でした。



 「限界集落」の勉強会は始まったばかりですが、そこから見えてくる様々な地域問題に挑む地域づくりもこれから私の大きなテーマになりそうです。参加したある人が「65歳以上を高齢というが、それは実態と違う」とギクリ釘を刺しました。「うーん一利あるなあ」と感じました。

  「限界と 呼ばれる集落 増えている 役所は何を 考えてるか」

  「六十五 以上を高齢 いうけれど いやいや違う 異論唱える」

  「役所より 凄い資料に 加工して 人口問題 いよいよこれから」

  「後二年 したら私も 高齢者 ぞっとするけど これが現実」



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○季節外れのジャガイモ

 昨年の秋、同じ市内に住む水口マリ子さんから電話があり、ジャガイモの種があるので植えないかとお誘いの電話がありました。水口さんは更生保護婦人会の役員を務める私の最も親しい友人の一人で、お家は育苗農家として手広く経営をされています。ふとしたことから知り合い、今では季節の野菜や葉牡丹の鉢植えまでいただいています。特に水口さんの炊く黒豆は絶品で、正月のおせちにと毎年いただくのですが、甘さを控えた黒豆は家族の大人気で、小出しにして美味しく食べました。

 わが家の敷地は660坪と田舎らしくて広いものの山を背にしているため、晩秋から初冬にかけて日当たりが悪い難点があります。したがって冬野菜は晩秋でも陽の当る早めに作付けをしないと人並みには出来ません。水口さんからいただいたジャガイモの種は既に芽吹きをして「早く植えて欲しい」といわんばかりの元気な種芋でした。「秋ジャガイモの種は切らずにこのまま植えなさい」と指導を受けて、その日のうちに植え付けしました。

 やがて立派な茎が青々と育っていましたが、やがて初冬になりその茎も次第に弱り始めて、今ではハコベなどの草に埋もっていました。正月を挟んだ頃には一緒にいただいたブロッコリーやカリフラワーがぐんぐん生長し、今まで見たこともないような立派な花野菜が出来て、毎日美味しくいただいていますが、その脇に忘れられたように茎を弱らせているジャガイモ掘ってみると、土の中から雪のようにという表現がピッタリの真っ白いジャガイモが出てくるのです。春ジャガイモのように沢山の数ではありませんが、一株毎に2~3個ですが、見たこともないような大きなジャガイモです。こんなに出来たのは初めてなので近所や娘、息子に水口さんからいただいた種芋だと離しながら、さも自分の作り方が良かったかのように得意げになっておすそ分けをしました。まだ土の中には沢山の芋が残っていますので、寒中ゆえいつまで持つか分りませんが、小出しにしてその味を楽しんでいるところです。

 さてこのジャガイモは今のところシチューやカレーのほか、マッシュポテトにしたりして味わっていますが、美味しい食べ方は輪切りにして魚の煮付けと一緒に炊くと美味しいし、堀りだちを塩湯でしてバターかマーガリンでいただくとこれまた抜群です。堀りだちのジャガイモは薄皮がパリンと割れて、粉を吹くような舌触りが何ともいいものです。

 園芸店の店先には早くも春植えのジャガイモの種芋がうず高く積まれ、季節の変化を告げています。昨年収穫した春ジャガイモは、思わぬ秋ジャガイモの出現にその座を奪われ、倉庫の片隅で寂しく芽を出しています。ジャガイモの芽は中毒を起すといわれて敬遠されるのか、妻もどちらかというと秋ジャガイモに目を奪われているようです。親父はそんな姿を見取ってか、芽が出たジャガイモを選んでゴミ袋に入れて処分しているようです。

 春はもうそこまで来ています。昨日出かけた人間牧場の梅林では早くも一本だけ満開の梅の木がありました。芳しい香りに誘われてメジロが沢山蜜を吸いに来ていました。

  「秋ジャガが 土の中から 顔を出す 白い肌して 妻のようだね?」

  「食卓に 並ぶジャガイモ 人面に さて誰の顔? 思い出しつつ」

  「体調を 気遣う妻の 手料理に 美味いもんだと ねぎらう言葉」

  「種芋を 貰った人の 名前言い おすそ分けする でめてお返し」

  




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○冬の草刈り

 昨日はテレビを見ていたら、四国の高速道路やJRなどが雪のため通行止めや運転見合せというテロップが流れ、南国ゆえに雪に弱いなあと、先月秋田県横手市で体感した大雪を思い出しました。12月だというのにあんなに雪が降り、積雪が10センチを越えても、タクシーなど60キロ近くの速度でバンバン走っているのには驚きました。そこへ行くと四国は道に薄っすらと雪が降っただけでも、やれスリップ事故だ渋滞だと騒ぐのです。でも今年の冬は確実に寒く、大寒入りの今朝もかなり気温が下がっていて、氷など張らないものの吹く風は冷たく肌身に刺すようでした。私たちの町ではこの季節に吹く風は西高東低の気圧配置のため北西の季節風なのですが、今年はどうしたことか、今日も秋に吹くはずの北東の風が吹いていました。やはり気象異変でしょうか、気圧の等圧線が縦だと北西、横だと北東なので、高気圧の張り出しもいつもと違っているようです。

 今日は寒いながら久しぶりにお休みなので、草刈機をオープンカーに積んで人間牧場の草刈りに出かけました。冬に草刈りなど聞いたこともなく、ましてや私もやったことがないのです。山道ですれ違う農家の人が「こんな寒い日に何処へ何しに」と聞かれました。「はい草刈りに」というと、「えっ、草刈りですか?」と怪訝そうな顔をされました。

 実は秋の終りの草刈りが遅れ、泥棒草と称する草がやたらと生えて、ズボンや手袋に付着するものですから、刈っておかないと、梅の花を愛でる時も、畑作業をする時もやんちゃなため、草刈機で借り倒そうと思ったのです。昨日の雨が尾を引き、今日も朝から小雨交じりのあいにくの天気でしたが、長い間使っていないものの草刈機も絶好調で、満タンにしたタンクが空になるまでエンジンを吹かして刈り込みました。一段落ついたところで手に入れていたブルーベリーの苗を植えました。細い苗なので路地で栽培できるまでに成長するかどうかは分りませんが、梅、スモモに続く果樹として、サツマイモやフキに加えるべく植え込みました。本当は薪ストーブを焚いてのんびり過ごす計画でしたが、雨足が強くなって天候の回復も望めないことから、農作業を断念しました。




 落ち葉を使った腐葉土作りも、その後豚糞を振り撒きそのままにしていたので、教育委員会の日山さんが手配してくれた透明なビニールを二枚切りして、囲いい中に入れた落ち葉の上に被せました。風が吹いて飛ばないよう豚糞の袋を四方に置いて、当分はこれで代用します。落ち葉は空気と水と発酵菌、それに水を加えると発酵が始まります。ただし外気温の低い状態では発酵しないので、このビニールで発行の際に出る熱で更に発酵を促進させようとするのです。本当はこの熱で囲いの中の室温を保ち、芋の苗床で季節を早めてイモヅルを確保する計画なのですが、3月には腐葉土が完成しなければならないので、少し早めの作業になったようです。



 雨がいよいよ本降りになってきました。早々に帰った私を見て妻はちょっと首を傾げ、「馴れない事をするから雨が降る」と皮肉たっぷりにいわれました。

 綺麗に草を刈った梅林では早咲きの梅が早くも5分以上咲いており、芳しい香りを漂わせていました。今年は友人たちと梅の花を愛でながら一杯やろうと約束をしているので、これで舞台は整いました。昨日人間牧場に醸造している梅酒を初絞りしましたが、中々の出来栄えです。梅酒に付けた梅は今まで捨てていましたが、これもお茶漬けの当てにもってこいだということが分り、昨日から妻と二人で食べ始めました。わが家の梅酒はカビ生え防止に少しホワイトリカーを入れているだけの、どちらかというと梅ジュースの類なので、子どもに飲ませても大丈夫なので、今年は子供たちにも飲ませてやりたいと思っています。

  「寒い冬 何故に草刈る 変じゃない お陰様にて 畑綺麗に」

  「二十年 使いこなした 草刈機 今も現役 俺に似てるな」

  「ピートモス 回りに入れて 土被せ 実験スタート 生るかも知れぬ」

  「土の下 早くも草は 根を伸ばし 春の準備 怠りもせず」



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○あなたはどうして輝いているの?

 私の知人友人たちが60歳定年というハードルを越えて、私と同じ自由人の仲間入りをし始めました。これまで肩書きや名刺がものをいう社会にいた人間にとって自由は憧れですから、殆どの人があれもしたいこれもしたいと思っているに違いありません。しかしいざ自由人になってみると、確かに会社や役所の縛りから開放されて誰はばかることなく発言や行動が出来るのですが、その反面収入がなくなるばかりでなく、今まで肩書きがものをいっていたのに、ただの人になるのですからその落差は相当なものなのです。こんなはずではなかったと思ってみても、世の中はそんなに甘くはなく、現役では生き生きと輝いていた人が自由人になった途端、まるでしぼんだ風船のように見る影もなく、健康までも損ねて落ちぶれている姿は哀れささえ感じるのです。

 数日前、えひめ地域づくり研究会議の年次フォーラムに参加してもらった友人と久しぶりに出会いお話をしました。「若松さん、あんたは仕事を辞める前も辞めた後も変わらず生き生きと輝いて生きていますが、羨ましい限りですね」と言われました。確かに私は言われるほど輝いてはいませんが、そこそこ輝いて生きていることは確かです。友人は「輝いて生きるコツは何ですか」と追い討ちの質問を投げかけてきました。

 私の輝きの秘訣は強いてあげれば「目標をもって生きる」「健康に生きる」「家族とともに生きる」「仕事に生きる」くらいだと思います。

 「目標を持って生きる」ことは二十三歳の時、青年学級で生活設計を教わり、自分の人生は自分がコントロールできることを学んだことが役立っています。今振り返れば26歳で結婚する、子どもを4人作る、30歳でアメリカへ行くなど夢はドリームではなくターゲットできたのです。60歳からの人生も50代で「人間牧場構想」という楽しく生きる自由人としての夢を描いていました。その結果大きな果実を手に入れ今は目標を持って生きているのです。 

 「健康に生きる」は、心の健康と体の健康のバランスです。飲食生活は酒を止めたことで随分改善され、まちづくりの中で学んだ健康に生きるための工夫が実践という形で体に表れています。勿論自称ポジティブ・マンというほどプラス思考で日々を暮らしています。

 「家族とともに生きる」は、現役中は働き蜂の異名を取るほど随分働いたため、家族をないがしろにして生きてきました、家庭を顧みなかった駄目亭主も今では軌道修正して家族とともに生きる事を実践しているのです。人間牧場づくりは家族との関係を見事に修復してくれたように思うのです。

 「仕事に生きる」ですが、リタイアしているもののセミリタイアで、愛媛大学の非常勤講師や、地域づくりに関する講演などで忙しく全国行脚が出来ることも、若い頃からの蓄積が生んだ結果だと思うのです。

 勿論いささかなりとも社会貢献しなければなりませんから、地域の自治会活動や人間牧場での少年少女おもしろ教室など、積極的に関わっています。そうすることが「目標」や「健康」、「家族」「仕事」への新しい生き方へと進化をしていくのです。

 人間は積極的、すなわちポジティブに生きてゆかなければ進化はせず、むしろ後退の道を辿ります。去年よりは今年、今年よりは来年とステップアップすることが人間として生きていることの意味だと思うのです。

  「羨まし あなたは何故に 輝いて? いわれてはてな? 四つくらいか」

  「目標を 超えれば次の 目標が 出来るものです ポジティブ生きりゃ」

  「当分は 生き生き生きれ そうですと 仲間に話す 仲間負けたと」

  「家族です 歯の浮くような 一言を 言えりゃ本物 私本物」


 

 

 

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○息切れするが視野は広くなる

 先日町のシンボルでもある本尊山という近くの山に一人で登りました。正月休みにおご馳走を食べ過ぎ、何となく運動不足だったため地元の氏神様天一稲荷神社まで散歩に行ったついでの、急な思いつきなので全く軽装でした。線路をまたぎ坂道を登るほどに息遣いは荒くなり、運動不足と加齢による体力不足を感じながら、急ぐこともあるまいとマイペースで登って行くと、まるで踏みつけ道のような山道のあちこちには、矢竹が生い茂り通行さえもままならず行く手を阻まれたり、クモの巣が体全体にくっついたりと散々な目に会いました。

 それでも30分ほど歩くと周りの視界が徐々に開け、落葉樹の樹間に下界の景色が見えてき始め、やがて大きな石がどっかりと座っているように見える9合目へ出ました。ここには難視聴を解消するため私たちの加入するテレビ協調組合が立てたアンテナのある場所で、天一稲荷神社の奥の院らしく石の鳥居が立ち、何か霊感を感じるような雰囲気です。私はその場所で休むことなくいよいよ最後の難関に挑戦しました。この坂は一番の難所で周りの木々の助けを借りないと登れないほど急な坂道で、少し滲んだ汗を感じながら頂上に出ました。ここは中世の城郭本尊城の跡で今もその当時の石類群が数多く残っていて往時を忍ばせてくれます。

 頂上には三角点があって、そこからは瀬戸内海や松山の道後平野が一望できるばかりでなく、シーサイド公園、上灘漁港、上灘中学校、由並小学校など町の殆ど全てが見えるばかりか、わが家の敷地全体がまるでヘリコプターから見るように見えるのです。

 ふと僅か30分足らずの山登りを自分の人生に例えてみました。私の人生ももうそろそろ八合目辺りでしょうか。ある映画監督が「老齢は山登りに似ている。登れば登るほど息切れするが視野は益々広くなる」という言葉を残していますが、その通りだと思いました。63歳になると「登れば登るほど息切れする」という言葉が実感できますし、これ以上先へは進めないと諦めたりするものです。しかし闇雲に働き周りが見えなかった昔に比べ、今は行く文化の余裕も出来て、辺りを見渡したり風の音や鳥の声、足元の草花や落ち葉など様々なことに気を配ることが出来、八合目を過ぎると周囲の木々も少なくなって視界が開けてくるのです。これが「視野は益々広くなる」意味なのだと思いました。

 出来るだけ同じ道を引き返さないのが私流なので、頂上を越えて歩き掘り切りという戦略上重要な場所まで行って沢伝いに上灘川沿いまで歩いて出ました。まさに道なき道でしたが新年早々ふるさとの名山に登れていい経験が出来ました。本尊山に登った事を息子に話すと、今度は一緒に登ろう」と誘われましたが、いつになるやらです。加齢とともに自分のふるさとが遠くなるような感じがしています。というのも、役場という地元の職場をリタイアすると、地元の話題に触れることは極端に少なくなってきました。妻が近くの歯医者さんに勤めているので、かろうじてそこら辺の地ネタは拾えるのですが、私のように家や町を四六時中空けると、町の話題は遠のくばかりです。また車の利用が多くなると、町中を歩くことも少なくなって、出会う人も限られて、まさにふるさとは遠い存在になりつつあるようです。ひょっとしたら90歳になった親父の方が近所の話題には詳しいのかも知れません。

  「ただ一人 ふるさとの山 登りつつ あれやこれやと 人生思う」

  「ある人が 加齢段々 息切れが するも視界は 広くなる言う」

  「年毎に ふるさと段々 遠くなる 地ネタ知らずに ただただ生きて」

  「頂上で ヤッホー山彦 帰り来る わが家上から 見下ろし叫ぶ」 

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○えひめ地域づくり研究会議年次フォーラム2008開催

 昨日は朝から忙しい一日でした。私が代表運営委員を務めるえひめ地域づくり研究会議が毎年この時期開いているフォーラムをリジェール松山(農協会館)で行うため、同じ代表を務める伊方町三崎の塩崎さんと双海で待ち合わせし二人で出かけました。既に会場では松本さんはじめ事務局であるえひめ地域政策研究センターの職員が忙しく準備をしてくれていました。

 今年は今年の11月14日と15日の両日愛媛県で開催される第26回地域づくり団体交流大会のプレイベントとして開催するためでしょうか、例年になく多い参加者で、当日参加をあわせると200人もの人が参加するのです。一応の準備が終わった頃を見計って運営委員会が持たれました。私は開会のあいさつもそこそこに、大会の記念講演をお願いしていた法政大学教授の岡崎先生を空港まで出迎えに行きました。土曜日のためか空港はかなり混んでいて、顔見知りの顔もちらほら、偶然にもチェロリストの上田真二さんご夫妻にめぐり合いました。上田さんとはかつて若松進一、上田真二、小林真三さんのワン・ツー・スリーコンビでシンポジウムをやった経験がある懐かしい人です。十年の時を越えた再会でしたが若い頃の思い出が鮮やかに蘇ってきました。飛行機は予定通り到着し、岡崎先生とも久しぶりの出会いで懐かしく感じながら、私の車で会場まで向かいました。

 フォーラムは午後1時からでしたが、会場となるリジェールの8階からは松山城や堀の内がまるで一枚の絵でも見ているように美しく見えました。壇上には松本さんの配慮で双海の水仙が馥郁とした香りを漂わせて活けられ、花を添えてくれました。私の役目は開会の挨拶です。近藤代表運営委員の司会で開会しましたが、さすがに200人もの集会となると迫力がありいい感じでのスタートです。

 岡崎先生の話は「連帯と協働による新しいまちづくり」について、なぜ新しいまちづくりなのか、新しいまちづくりの担い手、課題解決の方策などについて、具体的な事例を織り交ぜながら話してもらいました。

 またその後の分散会は、①~③は全国大会において分科会を担当する地域づくり団体が5団体づつに分かれて発表討議し、④分散会はボランティアガイドが集まり発表討議しました。それぞれの分科会を見て回りましたが、全国大会で全国各地から仲間を受け入れようとする意欲が伝わってきました。

 分散会のはっぴょうの後、100人もの人が参加して交流会が持たれました。それぞれの団体では自慢の特産品を持ち寄って、楽しい抽選会をやったりしましたが、酒を酌み交わしながら、様々な話に花が咲きました。

 会場には何年かぶりに出会った長浜の菊池さんやフロンティア塾の常連塾生だった末光さんなど多くの旧友に会い、時間の制限もあって積もる話はできませんでしたが、いい交流が出来ました。また最近知り合った新友や昔からの旧友など、参加者の殆どを知り尽くしているだけに、予定された2時間は時間の短さを感じました。

 実行委員会が組織されて3案買い会合が持たれ、それを受けてえひめ地域づくり研究会議が年次フォーラムと位置づけ準備したこの日の会合で、ある意味でやっと全国大会のスタートが切れたように思います。早くも2月1日から茨城県水戸市で始まる今年度の全国大会に出席して愛媛大会のピーアールをするべくプロモーションムービーや団体紹介のファイルも出来て、さあ実行委員会委員長たる私の仕事もいよいよスイッチオンです。

  「久しぶり 出会った友の 懐かしさ 酒酌み交わし 過ぎ越し日々を」

  「全国へ 情報発信 するために ムービーフアィル 容易万端」

  「二百人 顔が集まり フォーラムで 熱い議論を 交わして帰る」

  「若者の 参加少ない 気になるな どうにかせんと けつまずくかも」


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○健康診断

 「今日は忘れないように病院へ行くように」と妻に念を押されていたので久しぶりに県立中央病院へ出かけました。私は8年前に胆のう摘出手術をして以来欠かすことなく2ヶ月検診を受けていましたが、昨年の6月にどうしても日程の折り合いがつかず病院に行くことが出来ず、その後ぎっくり腰を患った程度で大した体の不具合もなく過ごしてきましたが、妻にとってはそのことが気になるらしく、自分でさっさと私の日程表の空きを見て病院の予約センターへ電話を入れ、予約をしてくれていたのです。

 半年ぶりの病院は午後2時からの検診予約だったので、大した混乱や待つこともなく、自動予約受付の機械で予約を済ませ座っていると、顔見知りの人が何人か通り、「あら若松さんではないですか。何処が悪いの」と会う人毎に聞かれるのです。「体はいいのですが顔が悪くて」なんて洒落をいいつつ、同じような返答をしてテレビの前で過ごしていると、「若松様」と「様」付けでクロークさんから名前を呼ばれたのは午後2時15分でした。「はい」と返事をして中待合で待っていると、中へ入るように勧められました。見ると私の担当医師の二宮先生ではない女医さんが座っていました。「二宮先生は救急対応で来れませんので私が変わって」とその女医さんは、患者の私がいるのにパソコンに向って話し始めました。

 「長い間来られていませんね。どうしてですか」。「はい仕事が忙しくてついつい」。「それは大変ですね。でも体は大事にしてください」とやんわりお灸を据えられ、「今度はいつ来られますか。今のところ空いているのは月29日ですので、後で説明致しますので注意書きをよく読んでお越し下さい。今日は血液検査をして帰ってください」でチョンです。「えっ、血圧も測らないのですか?」と問い直そうとしましたが、女医さんは私の予定をパソコン画面に打ち込み、それで終りでした。あっけに取られたものの、仕方がないので言われるまま血液検査の部屋に行き、採血を終えました。「会計で支払いをお願いします」でここも4~5分で終了、何のために病院へ来たのか分らぬまま病院を後にしました。

 それにしても病院とは不思議な所です。私の顔色も見ず体の調子も聞かず、血液のデーターだけで私の現状を判別するのですから偉いものです。勿論今度来るときにはそのデータが揃っていて、エコー検査や透視検査で総合的に判断するのでしょうが、少々納得のいかない一日でした。

 家へ帰るなり心配して待っていた妻は開口一番「病院の結果はどうだった」と聞くのです。病院では血液検査をしただけで何も診てくれなかった。今度2月29日の金曜日で予約を取ったから忘れないように」と、さも人ごとのような口調で話すと、妻は早速居間のカレンダーをめくって「進一健康診断の日」と大きく書き込んでくれました。今日は病院へ行く時、日程表を忘れて行きお医者さんの示した2月29日が空いているか気が気ではありませんでしたが、何とか空いていてホッとしました。

 病院へ行くと何か病気になったように気が滅入ります。それでも病院へ行かねば自分の体のことは殆ど分りません。早期発見、早期治療のために検査は欠かせないことなので、これからも何はさて置いてでも健康診断だけは受けようと思っていますが、しっかりと元気を確保してこれからの人生に備えたいと思いました。

  「顔色も 体も見ずに はいこれで えっ?と驚き シブシブ帰る」

  「どうだった? 聞かれはしたが 答えよう なくて分らん たったそれだけ」

  「パソコンに 向って話し する医者に 俺の体を もっと見てくれ」

  「二時予約 二時半終わる 三時半 家に帰りて 妻は驚き」

 







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○5本川の字になって寝る

 川の字は縦線3本で「川と読みますが、昨晩は泊まりにやってきた娘の家族と一つの部屋で川の字ならぬ「11111」の字になって寝ました。一番最初に寝るのは生後8ヶ月になる孫尚樹です。8時には風呂に入れて床につきスヤスヤと寝入っています。続いて私と一緒に風呂に入った5歳の孫朋樹が8時30分ころ床につきます。娘が来ない場合は私と床に入って私のお話を聞かせるのですが、昨日は娘がお母さん役で本を読み聞かせていましたが、昼間の疲れなのかアッという間に夢の世界です。

 その後娘と妻と私でみかんを食べながらテレビを視聴し、10時30分に孫を挟んで二人が眠ったようでした。その後私は書斎で締め切りが近づいている原稿を書いていましたが、12時になったのでそろそろ寝ようとパソコンのスイッチを切り、ストーブの火を落として居間に行きましたが、どういう訳か妻は私の布団を敷き忘れているようなのです。寝入っている妻に声をかけるものの、寒くて面倒くさかったのか、「お父さん今日はみんなで寝よう」と自分の横に来て寝るよう勧めるのです。仕方がないので一番隅の妻の横に潜り込みました。妻の体温で布団の中は暖かく、私の冷えた手と足が入ると妻はクルリ背を向けて孫の方を向いて寝てしまいました。やがてそのうち私も夢の世界に突入しましたが、娘は5歳の孫朋樹を12時にトイレへ連れて行き、途中尚樹にお乳をあてがう程度で大した混乱もなく朝を迎えました。私は朝4時の起床なのですがこの日は孫と一緒に寝るよう妻から言われ、5時頃まで布団の中にいました。生後8ヶ月の尚樹は既に目を覚ましていて、指を吸いながら一人遊んでいました。娘は尚樹のオムツを替えてまたスヤスヤなので、妻と私の間に孫を入れて遊んでやりました。孫は豆電球の光ながら笑顔で私と対話です。対話といってもまだ言葉は喋れませんが、それでも「アー」とか「ウー」とか何となく分るような言葉を発して私の顔を触ったりしながら30分くらい遊びました。娘がお乳を与える間に床から抜け出しましたが、まるで雑魚寝ながら、昨晩は楽しい一夜を過ごしたのです。

 そういえば子どもが小さい頃は5本川ならぬ6本川の字になって同じ部屋で毎日寝たものでした。夏になると子どもたちは部屋の中を寝たまま自由に動いて、子どもを捜すのに迷ってしまうようなことがしょっちゅうでした。冬になるとはみ出す子どもを布団の中に入れるのに一苦労もしました。また子どもにオネショを掛けられ風呂場まで走った経験も何度かありました。でも振り返れば貧しくて決して豊ではなかったけれどあの頃が一番幸せだったなあと思うのです。親父がいつも「子どもが小さい頃が家庭は一番幸せだ」と言っていた意味が分るような気がするのです。孫の乳臭い匂いも、オムツから出る匂いも全て懐かしさの象徴だと思いました。

 いつの間にか四人もいたわが子はそれぞれ大きくなって、古巣から旅立ってよきました。気がつけば親鳥二人に年老いた老い鳥が一人、肩を寄せ合うように古巣で生きています。たまに来る孫鳥たちもやがて大きくなってわが家と同じように巣立って行くのでしょうが、少し寂しく少し切ない家族の運命を感じました。

 ふと、娘婿が一緒に来ない日はこれから、孫が来る度にこんな寝方もおつなものだと妻に話しましたが、「私は眠れないので反対」とあっさり否決されてしまいました。そういえばオムツを取りに行ったりり布団を敷いたりと、週末に孫が来ることによる妻の仕事量増加は、目には見えないけれどおびただしいものがあるようです。

  「孫が来る 孫が帰るの 大騒ぎ 嬉し半分 寂し半分」

  「川の字に なった布団に 潜り込む 孫の匂いは どこか懐かし」

  「また一人 また一人去り 気がつけば わが家は古い 三人残る」

  「オシッコに 起す夜中の 大騒動 孫は寝ぼけて そこらウロチョロ」   

shin-1さんの日記

○地域活性化講演会

 あらかじめ電話で聞いていた会場となる公民館の電話番号をカーナビに入力し、確実に行くことが出来ると確信したので、少し寄り道をして水軍城に立ち寄りました。何年か前妻と来た時はあいにく休館日だったため中を見ることが出来なかったのですが、この日もまた運悪く休館日で、運の悪さを雌時と嘆きました。夕闇迫る午後5時前のことゆえ人の気配は全くなく、一人で天守閣のある頂上までの急な坂道を登って行きました。



 入り口には村上水軍の旗印を示す絵文字が庭木で表現していました。



 そこここに村上水軍の旗印が色鮮やかに立ててられて、何処かから水軍の雄たけびが聞こえてきそうな雰囲気です。



 天守閣まではそんなに険しくもなく階段を上がる毎に周りの眺望が開けて絶景の地にありました。



 城山の頂上付近から横道が続き、お寺の裏にある村上一族のお墓へと通じていました。




 墓地は水軍の武将らしく格式の高い五輪の塔が幾つもあって、歴史の重さを感じました。







 金蓮寺は村上水軍ゆかりの寺で、山門の入口にはめずらし石仏の阿吽像が立っていました。


 目指す大浜公民館は目の前に向島にかかる大橋が見える絶好な場所にありました。公民館の施設は立派で、みかんの形をした丸いドームのような屋根が目印と伺っていたので、迷うことなく少し早めでしたが明るいうちに到着しました。館長の酒井先生と職員の楢原さんが優しいい笑顔で迎えてくれました。聞けば酒井さんも楢原さんのご主人も私と同級生だそうで、楢原さんのご主人は退職後釣りや畑仕事三昧の暮らしをしているそうで羨ましくも、同じ世代の話に花を咲かせました。

 この日は今年一番の冷え込みにもかかわらず和室には沢山の人が集まって、時間通りに集まって時間通りに始まった和気藹々の姿に、大浜地区の文化度の高さを感じました。2月3日の節分の日には伝統行事の神明際という伝統行事も予定されているそうで、この地域ならしっかり生きていけると確信がもてました。

 私の話は夜分のことでもあり、ましてや疲れた体を押して集まって来ているのですから、四方山話のような楽しいい話にしようと心がけて1時間30分程お話させてもらいました。この地域は70歳以上が33パーセントを占める限界集落に近い感じの地域ですから、これからの生き方は助け合いと自分を見失しなうことなく生きることが大切だと強調しました。



 いい集会に参加するとほのぼのとした気持ちになります。8時40分に終わり、楢原さんから「お茶でも」と誘いを受けましたが、「今日中に帰りたいので」とすまなく断り、元来た道と橋を渡って帰って来ました。夜道といいながらそれでも自宅に帰ったのは11時を過ぎていました。

  「水軍の つわものどもが 夢の跡 訪ねて騒ぐ 同じ海人」

  「同年の 人と話せば 何となく ホッとするやら 嬉しいやらで」

  「お土産に 八朔一箱 いただいて もと来た道を ほのぼの帰る」

  「いいですね 田舎の集まり 笑い声 ここにも贈る オンリーワンを」