前回、携帯の話をした時に少し触れたが、
今日はゆとりの話。
僕は以前こんな詩をしたためた。
■こころのゆとり、どこからくるの
こころのゆとり
どこからくるの
ひもじいところ
ゆとりはあらず
あせりのなかに
ゆとりはあらず
さびしいところ
ゆとりはあらず
ことばもたぬは
ゆとりにならず
こころのゆとり
なによりいきる
(120401)
今、携帯に限らずテレビも含めて、音が有り余っている。
前回書いたとおり、携帯の着信音が毎時間のようになり響くし、
テレビでは20秒刻みで効果音が流れる。
僕にとってはその着信音も効果音も
自分の心を乱す人工音でしかない。
あげくの果てに今は防犯のために普通は聞こえない低周波を流したりしている。
不快な音の連続が心を乱す原因になっていると僕は思う。
でも、その心理的影響については、
直接症状が出るわけでもなく原因を特定できるわけではないので、
意識される事もなく問題にならない。
しかし僕としては自然の景色や音に心のゆとりを求める時、
いつもその人工音のトゲトゲしさに思いを馳せる。
精神病が多発するのもそういう人工音ばかり耳にして、それが蓄積されて
一時の心のやすらぎすら与えられない生活で、
徐々に精神を蝕む原因になってるいのではないかと思ってしまう。
人によって異なるが、
寂しいからと言ってテレビをつけっぱなしにするのは逆効果ではないのか。
僕はテレビはサッカー以外ほとんど見ない。
その代わり、ラジオをよく聞く。
テレビとラジオの違いは映像があるかないかだろうけれど、
僕にとっては尺の長さが一番重要。
テレビの尺は30秒刻みだったりするけれど、
ラジオの場合は5分話題、4分音楽の繰り返しだったりするので意外と余裕を持ってきける。
そこが僕にとっては大きな差だ。
また社会・経済のシステムとして、効率を追求しすぎたために、
瞬時に物事が進まないといけない世の中になっている。
携帯を使って瞬時に情報や会話ができるようになったけれど、
逆にゆとりをもって行動するとか、時間をかけて熟成して物事をより深いモノにするという
余裕のある行為には至っていないのではないかと思う。
ワインやウイスキー、あるいはぬか漬けやチーズなど
時間をかけて熟成することで付加価値が高まる事もあると思う。
また人やアイデア、情報だって、時間をかけなければ達せない領域もあるはずだ。
僕の絵もそんなバンバン描けるモノではなく、
本を読んで詰め込んだ知識や自然にたくさんふれて蓄積された記憶とか
人の話をたくさん聞いて蓄積された想いとかが
あるとき、フッと形を帯びて出てくるモノを描いているに過ぎない。
だからその熟成期間を経ないとあんな絵は描けないのだ。
でも大抵の人はそのゆとりがない。
最初に挙げた詩。
僕はあの時点では答えは見出せなかった。
でも今はこう思っている。
こころのゆとり
どこからくるの
身のおきばしょ
そしてありかた
自分の身は自分で守るしかない。
この情報・人工音過多の現代ではその苦痛を回避すべく、
自らの日ごろの行いを見つめ、自分でそのこころの状態を保つ為、
自ら進んで回避を心がけなければいけない。
そんな生活をするのも苦だろうが、
でも本当に心のゆとりを持ちたかったら、そうせざる終えない世の中なのだ。
僕は以前に書いたとおり、そういう人工音の場から距離を置き、
自然の中で、ひなたぼっこをしたり、気功式呼吸法をしたり、
自分の心のゆとりを保つための努力をしている。
そうしないと怒りが抑えられなくなったり、過度な悲しみがこころを蝕むからだ。
ゆとり教育とか考える前に、
そんな不快な音や情報を減らす努力をしたらどうかと思う。
結局のところ、行き過ぎた効率や便利を追求しすぎた結果、
ゆとりも余裕もない人々が生まれ、それによって社会が混沌としているに過ぎないのだ。
皆さんも心のゆとりが持てるように、
便利の裏側にある闇をみつめてほしいと思う。