最近、教典を読み漁ってる話は以前に話したと思います。
その中で老子のいう道(タオ)も、
ブッタの説く仏も、
イエスの説く神についても、
言語や表現方法、年代や風土が違うため、多少の誤差はあったところで
同じ感覚が僕の中に研ぎ澄まされて入ってきています。
道でいう自然(じねん)やブッタのいう無明、
あるいはイエスのいう敵を愛せよという言葉の中に共通の認識が芽生えました。
それは現代でもよく言われる事で
僕の大学時代のゼミの教授である恩師にも言われた言葉でしたが
自分の意見と相反する意見に眼を向け、その言葉の中に自分にはないモノ、
あるいは自分の虚を見出して、その上を目指すという考えです。
それを数式で表すと
自分を10のキャパとすると、
10(自分):10(他者)→5+5:5+5
あるいは
6+4:4+6
など比率は色々あると思われますが、とにかく自分の中に吸収せよという事でした。
これを彼らの説法で現すとすると、
10:10→10+10-20:10+10-20
という他者の意見も全て自分の中に受け入れ、10のキャパに20を受け入れ、
キャパオーバーな部分20全てをタオや仏や神に委ねよ。
こういうように説かれているように感じました。
他者を受け入れるという事は単数の受け入れ方では不十分であるし、
他者を本当の意味で愛するという事は全て(10)を受け入れる事、
それなくしては成り得ないように思います。
その上に立って、全ては自分ではない他の次元へ委ねる。
そういった思想が宗教の中に内在するのではないかと思います。
老子やブッタの教義の中には言葉にした時点でその言葉の意味の中に相反性を内在していて
それを超えた10+10を委ね0となったとき
自然であり無明であると説く節もあります。
こんな数式で表せる程、物事はこんな単純ではなく、
しかも教義によって様々な説法があり、
一口にこういう括りにしてしまうのは語弊があるかもしれませんが、
僕の直感的な汲み取り方だとこういう風に思えてくるのです。
勿論まだそれぞれの教典を読み齧っただけなので
そこに含まれる深い信仰や言葉の示す意味まで
到達するには至りません。
ですからあまり下手な事は言えませんが、今の僕としてはこんな風に捉えているのです。
まだまだ僕の中にはそれぞれの教義への信仰は薄く、
自分の中に落ちてくるような教義ではありませんが、
こうやって自分なりに読み解きながら読み進める事で
新たな境地へ登って行く事ができるかもしれないと思いながら読み進めています。
今回も最後までお読み頂きありがとうございました。