すべての伝説は挫折から始まる。
挫折は自分を強くしてくれる免疫となる

今回は、誰もが知っている
国民的タレントのタモリさんの伝説を語る。

 次から次へと降りかかる

人生の不幸な出来事を見事に

自分の長所に変えてきた人、それがタモリさん

 

タモリさんは、何故

いつもサングラスをかけてるのかと言うと

右目が失明しているから。

 

小学校3年生のとき、

下校途中で電信柱のワイヤに

顔をぶつけてしまって、針金の結び目が

右目に突き刺さってしまった。

 

学校を2ヶ月休んで治療してみたけど

視力は戻らず失明。

 

小学生のタモリさんは、さすがに

ふさぎこんでしまって、毎日、

絶望感に打ちひしがれていた。

このまま落ち込んでいても

しょうがない!

と悟りを開いた結果、

 

人を笑わせることに興味を持ち始め、

小学校の卒業式で漫才を披露したという。

 

小さな頃から、

吉永小百合さんの大ファンだったので

大学の第一志望は早稲田大学。

当時の早稲田大学生の半分はサユリスト。

 

どうしても、あきらめきれず

浪人してでも早稲田を目指して

一生懸命受験勉強に精進した。

 

押入れの中で深夜ラジオを

聴きながら受験勉強したことが

のちに自分の才能の扉を開くきっかけになった。

 

努力の末、早稲田に合格。

入学できたタモリさんは、

憧れの吉永小百合さんを学内で追っかけて

食堂で小百合さんが食べた後の皿を

こっそり舐めたという面白い逸話もある。

 

さて、早稲田大学に入学したタモリさんは

トランペットに自信があったので

ジャズ研究会に入った。

しかし、いざ入部してみたら周りは

セミプロのレベルで全く歯が立たない。

いきなり大きな壁にぶつかり挫折感を味わう。

 

その時、タモリさんは即、

考え方を切り替えた。

自分がジャズを演奏して

未来の自分を模索するのではなく

ジャズは聞いて楽しんで、

自分の活躍の場所は、ほかで探そう。

 

そんな矢先、

早稲田大学生活が始まって二年生の時、

やむなく早稲田大学を中退することに。

 

大学二年生の5月の連休に

友達2人と男3人で旅行に行った。

 

友達二人は、

旅行のお金が無いというので

心優しいタモリさんは、

気前良くそのお金をふたりに貸してあげた。

 

しかし、いつになっても

そのお金が返ってこない。

そのお金は、親から送ってもらった

早稲田大学の授業料。

 

大学の出納課から書面の連絡が送られてきた。

「 学費未納のため抹籍 」

しかたなく、早稲田大学強制退場。

大学中退となってしまった。

再び、挫折感を味わう。

 でも、

「今の自分があるのは、あいつらのおかげ」

と、タモリさんは当時を振り返って

いまでも旧友に深い感謝の意を示している。

 

大学を辞めてしかたなく、地元の福岡に戻る。

福岡に戻ったタモリさんは、

とりあえず働かなくてはと思い、

朝日生命で保険営業マンとして

3年間、働いた。

 

その職場で見つけた彼女が

のちの奥さんになった。

 

結婚してすぐ、

旅が好きだったので旅行会社に転職。

しかし、すぐ系列のボウリング会社に

辞令が出て転属された。

旅に関わる仕事がしたかったのに

ボーリング場のホール係。

ふたたび、挫折感を味わう。

 

その後、職業を転々とする。

フルーツパーラーの店長、

うどん屋経営、喫茶店の店長

 

博多といえば、

照和という有名なライブハウスがある。

この照和から、井上陽水、チューリップ、

海援隊、甲斐バンド、長渕剛、チャゲ&飛鳥、

陣内孝則、ARB、しもやんが

続々とメジャーデビューしている。

 

その照和のとなりの喫茶店の店長として

働いていたのがタモリさん。

 

照和の舞台で、

チューリップや海援隊が脚光を浴びてた頃

甲斐バンドの甲斐さんが

照和のウエイターとしてバイトしてて

隣の喫茶店の店長がタモリさん。

 

ウインナーコーヒーを注文すると、

ほんとにコーヒーの上に

ウインナーを乗っけて出してくる

おもしろい店長がいると聞きつけて、

武田鉄矢がよくその店に通っていた。

 

武田鉄矢さんを知らないタモリさんは、

鉄也さんにこう言われたそう。

「 普通のコーヒーをくれ 」

 

するとタモリさんはこう切り返した。

「お前にコーヒーの味が分かるのか?」

 

当時から物怖じしない性格。

のちに、テレビ画面で売れっ子としての

タモリさんを見つけた武田鉄矢さんは、

あの時は度肝をぬかれたと語っている。 

テレビに出るようになった頃、

ある番組の中で

司会の堺正章さんにこっぴどく叱られた。

「オマエ、先輩の前で芸をする時は

サングラスを外せよ」

 

すると、タモリさんは

「 これがぼくの主義なんで 」

すると、堺正章さんは激昂。

「生意気な奴だ、このヤロー!!」

その後、ガンガン売れっ子に

なっていくタモリさんを見て

「 途中で、ぼく、

タモリさんと呼ぶようになりました 」

と堺正章さんが笑いながら当時を語っている。

 

そもそもテレビ界でデビューできたキッカケは

一体、なんだったのか。

タモリさんは、

いろいろ職業を転々としてきたけど

ちょうど30歳になった時、

それまでのものを

全部捨てようと決意した。

 

30歳のある日、

ジャズ好きだったタモリさんは、

山下洋輔率いるジャズバンドの

コンサートに出かけた。

 

そのコンサートの帰り、

ホテルの中をうろついていたら

宴会場でその山下さんのバンドの皆さんが

弾けている様子をドアの隙間から偶然見た。

 

誰かがバケツを頭にかぶって

虚無僧(こむそう)の真似をしている。

 

これは、俺の出番だと

その瞬間感じたタモリさんはその扉を開けて

見ず知らずの人たちの輪の中に乱入。

 

この扉の向こうに本当の仲間がいる

と、運命的なものを感じたと

タモリさんは当時を振り返っている。

 

一緒に騒いでいたら、知らない男が一人いる。

「 誰だ、こいつ!? 」

 

みんな酔っ払ってたので、その中の一人が

デタラメな韓国語でタモリさんを問い詰めた。

「 おまえは、いったい誰なんだ? 」

(デタラメ韓国語で)

 

すると、タモリさんは、

それよりも数段上のデタラメな韓国語で応戦。

 

これがウケた。リーダーの山下洋輔さん爆笑!

タモリさん、すぐにこの仲間に打ち解けた。

 

受験勉強のときに押入れの中で聞いた深夜ラジオが

韓国放送や中国放送だったので自然と身についたという。

 

そろそろ、その場を立ち去ろうとしたタモリさんに

山下洋輔さんがこう尋ねた。

 

「 おまえは、いったい何者だ?

名前を名乗れ! 」

 

「 私は、森田といいます。

もりたかずよしです 」

 

半年後、山下洋輔さんがジャズコンサートで

再び博多にやってきた時に、

あの伝説の九州の男を探せ!モリタをさがせ!

 

と仲間たちに指令を出したという。

見つけ出した山下さんは、

東京のマブダチである赤塚不二夫さんの元に

連れていくことにした。」

 

とにかく、コイツおもしろいんです!

初対面!

天才バカボンの超売れっ子作家、

赤塚不二夫さんはタモリさんを

一目見てパッとしない奴だなと思った。

 

「 ほんとにコイツおもしろいのか? 」

 

しかし、タモリさんの当時の

伝説の4ヶ国語麻雀を目の前で見た瞬間

赤塚不二夫さんは、その芸のすごさに舌を巻いた。

 

なんちゅー、おもしろい奴だ!

俺の家に居候しろ!

 

30歳で何もかも捨てて新しい人生を歩もうと

思っていたタモリさんは、本当に新しい世界を

この瞬間、見つけることが出来た。

 

当時家賃15万円の高級マンション、

服、車はベンツ、全部自由に使っていいよ。

 

赤塚不二夫宅で伝説の超贅沢な居候生活が始まった。

当の赤塚さん本人は、その間、

自宅をタモリさんに貸してあげて

自分は仕事場に寝泊まりしたと言う。 

「タモリは今まで会ったことないものすごい才能を持っている」

「ああいう都会的で洒落たギャグをやる奴は贅沢させないといけない」

「貧しい下積み生活なんかさせちゃダメだ」

と赤塚不二夫さんが他人に語っていた。

 

タモリさんは赤塚不二夫さんのおかげで

テレビ界で頭角を現していくのでした。

 

タモリさんが現在の国民的タレントになるまでに

たくさんの挫折という名の関門があった。

タモリさんはその関門を全部、

面白おかしく通り抜けて来た。

すべての伝説は挫折から始まる。

挫折は自分を強くしてくれる免疫となる。

免疫力の免と力と書いて勉、つまり勉強とは、

挫折への免疫力を身に付けて自分を強くすること。

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