城郭名:中尾城(なかおじょう)
住所 :京都市左京区浄土寺大山町
城主 :足利義晴・足利義藤(義輝)
利用年:天文十八年(1549)ー天文十九(1550)
駐車場:なし(銀閣寺拝観駐車場が使用可能だが、バスの利用を推奨)
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構造編
中尾城は、東側のA群とB群(大山出城)の2つの部分に区別されるとされます。
なお、両城の中間地点には土塁が存在しますが、現状は定かではありません
全体の概念図
※地理院タイル (標高タイル)を「Web等高線メーカー」サイトで作成
A群
一般的に中尾城と呼称される部分です。
大きく分けて4つの郭で構成されており、ところどころに土塁が構築されています。
また、北側はやせ尾根になっており、1~2名がかろうじて通れる横幅となっています。
その中でも少し離れた、比較的開けている尾根に堀切が設けられており、ここが城域の北限となっています。
A群概念図
※地理院タイル (標高タイル)を「Web等高線メーカー」サイトで作成
主郭
中心にある郭で、南側には土塁が残ります。
また、東側には虎口があり、南側の郭から回り込むように入る構造になっています。
土塁西端から撮影しました。
土塁の西側は不明瞭であり、こちらにも入り口があった可能性があります。
土塁から南側の郭(Ⅱ郭)を望みます。
Ⅱ郭には土塁などの遮蔽物がありません。
(池田 1985)によると、これは鉄砲戦のための射線確保のためではないかとしています。
主郭虎口
主郭東側の虎口です。
武者走りからの緩い坂虎口になって主郭に入ります。
また、入り口手前には竪堀が落ちており、行動が制約されます。
一度に入れるのは、1から2名くらいでしょうか。
主郭南土塁
Ⅱ郭から見た光景です。
高低差は2mほどです。
如意が岳への登山コースとなっているので、踏まれてかなり高さが削られているように思います。
Ⅱ郭南端堀切
尾根を三重に堀切りて……の堀切った一つでしょうか?
中央が土橋になっており、進軍の際のボトルネックになります。
ここでもたもたしていると、主郭の土塁から狙い撃ちにされてしまいます。
主郭を北側から見上げます。こちらは緩やかな斜面になり上っていきます。
高低差がわかりやすいように、武士を配置してみました。
主郭北側の郭(Ⅲ郭)
西側にある土塁です。
写真だと分かりづらいですが、50cm~1mくらいの高まりがあります。
西側の虎口です。
土塁が少し弧を描いており、登ってくる人の背中を狙い撃ちできます。
分かりやすいように人を配置すると、こんな感じです。
攻めて側から見ると、こんな感じです。
攻めるにはどうしても敵に背中を向ける必要があり、かなり危険な場所です。
中尾城の最重要防御ポイントだったのではないかと思います。
北端の郭を城外側から望みます。
地形を見ると、もともとこの辺りは谷地形であり、うまく地形に合わせて堀切を作ったことがわかります。
最南端の郭(Ⅳ郭)
場所を移動して、南側の郭に向かいます。
この郭は、南端の堀切の前に壁のようにせり立っています。
南側半分はわずかに高く、土塁状を呈していますが、全体的に自然地形という感じです。
南の堀切側から見ると、この郭が壁のようにそり立っているのがわかります。
西側の通路を通らないと、主郭に行けませんが、
ここを進むには上方のⅣ郭からの攻撃を受けなければなりません。
南側の堀切です。
堀切の間には小島状の郭があります。
堀切西側は現在ハイキングコースになっており、歩いていくと銀閣寺の裏手にたどり着きます。
堀切西側は緩い斜面につながり、こちらも登山コースになっています。
ここは、あえて緩い斜面にしているのではないかと思います。
馬が通れそうなくらい緩いので、ここから物資搬入をしていたのではないでしょうか?
もう一度北側に進みます。
北側は谷が入り組んだ複雑な地形になっています。
そして、谷に入り込む手前は、このように1名がギリギリ通れる道になっています。
こちらからの侵入は困難そうです。
さらに、地面がボロボロ崩れる、緩い斜面になっています。
なんとかここを降りていき、比較的広い尾根になった部分まで進むと、堀切があります。
上方から見ると分かりづらいですが、麓側から見ると、かなり深さがあることがわかります。
B群(大出沢砦)
ここから一度中尾城に引き返し、大出沢砦と呼ばれる地域に進みます。
こちらは、単郭の居館状の地形となっています。
紅葉の時期に行くと、すごくきれいな穴場スポットです。
B群概念図
※地理院タイル (標高タイル)を「Web等高線メーカー」サイトで作成
中尾城から大出沢砦に向かう途中に、関門状の地形があります。
堀切ないしは、木戸があったのでしょうか?
大出沢砦のある尾根から、中尾城を望みます。
こう見ると、意外と距離があるように見えます。
大出沢砦は行くのにコツがいります。
よく、見つけられずに帰ってしまったという人が出るくらいです。
行くためには大出沢砦のある尾根から、北側に向かい、斜面を下る必要があります。
↓のように斜面を下ると郭が出てきます。
まるで別天地です。
主郭(中心部分)
大出沢砦は、単郭に近い城です。
こんな感じで、北西に土塁があり、斜面との間が少しくぼんでいるという構造です。
それなりの広さがあり、往時は建物などがあったのかもしれません。
西側からの長めです。
元々何かに使われていたのか、アンテナの残骸が散らばっています。
北西の土塁です。
中尾城の中でも最も高く、2m以上の高さがあります。
個人的にはここが文献の、石を込めて鉄砲の用心とした壁、なのではと思います。
周辺にも多く転石があります。
土塁外側の犬走りです。
ここに入る道が、わずかに空堀状となっており、往時は横堀だったのでは、という気もします。
土塁から北東の斜面を見下ろします。
後述しますが、この眺めが、この位置に砦を作った理由ではないかと思います。
西側の帯曲輪を見上げます。
外縁部には転石があり、もともと石積みがされていたようにも思えます。
分かりづらいので、武将を配置してみました。
こちらは尾根伝いの道となっており、
当時はこの尾根→大出沢砦→中尾城という順に進んだのではないかと思われます。
単騎掛けでしか進めない北側尾根
この城で一番面白いのは、北側尾根だと思います。
既存の図面などではあまり描かれていませんが、↓のような地形になっています。
岩盤が馬の背のようになっており、両端は谷という、かなり危険な地形です。
歩くのが怖いくらいです。
ここを進むと、斜面に至るのですが、右上には土塁があり、
単騎掛けを進む姿を常に監視することができます。
普通に歩くのでも怖いのに、攻撃を受けながら進むのはかなり難しく、鉄壁の防御となっています。
また、主郭に至るまでの斜面はかなり急になっています。
このような天然の要害地形があったからこそ、ここに砦を築いたのではないでしょうか。
最後に、実際に歩くとどんな感じになるのかをGIF動画にしてみました。
まるで戸隠の蟻の門渡りです。
(容量制限でめっちゃ早くなってしまう……)
以上、概観してきましたが、中尾城は小規模とはいえ、
元々谷がちな地形をうまく使い、小勢でも守りやすい構造を取っているように思います。
特に中尾城A群の西側虎口、B群大出沢砦の搦め手の自然地形を組み合わせた防御構造は、
同時代資料の「名城」との記載に、説得感を加えています。
この城がわずか1年間しか存続しなかったというのは、なんとも悲しい話です。
参考資料
1. 塙保己一 編 ほか『羣書類従』第29輯 (雑部 [第5](巻第507-530)),群書類従刊行会,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2935222 (参照 2024-02-11)
2.池田誠「将軍足利義晴の中尾城を再検討する」『中世城郭研究 3』, 中世城郭研究会, 1985 p106-111
3.福島克彦「中尾城」『図説近畿の城郭Ⅰ』戎光祥出版, 2014/8, p92
4.「京都府中世城館跡調査報告書 第三冊 ー山城1ー」京都府教育委員会, 2014
5.「京都府中世城館跡調査報告書 第三冊 ー山城編2ー」京都府教育委員会, 2015
6.木下昌規「足利義晴と畿内動乱―分裂した将軍家 (中世武士選書44巻)」, 戎光祥出版, 2020/9
7.木下昌規「足利義輝と三好一族 (中世武士選書45巻) 」, 戎光祥出版, 2021/11
8.竹井英文「戦国時代の「名城」と「悪城」」『戎光祥城郭叢書3 杉山城問題と戦国期東国城郭』, 戎光祥出版, 2022/9, p419-441
使用したツール
1. Google Map(https://www.google.co.jp/maps/@34.9200845,135.6858079,2825m/data=!3m1!1e3?entry=ttu)
2. Web等高線メーカー(https://ktgis.net/service/webcontour/index.html)
3. ぱくたそ(https://www.pakutaso.com/)